第十話|大政奉還と戊辰戦争!慶喜が狙った生存戦略の正体

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第十話|大政奉還と戊辰戦争!慶喜が狙った生存戦略の正体
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「なぜ徳川慶喜はあっさり政権を返しちゃったんだろう?」
実はあれ、負けを認めたわけじゃありません。勝敗を分けたのは精神論ではなく技術格差だった?幕末の裏側を解説します。

嘉永6年のペリー来航以降、対応に迷走した徳川幕府は威信を失墜。慶喜は大政奉還で政治的主導権の維持を図るも、薩長の王政復古の大号令により排除されます。

続く戊辰戦争では、イギリスの軍事支援を受けた新政府軍が圧倒的勝利。明治政府は列強に対抗すべく廃藩置県などの急速な中央集権化を断行しました。これに反発した西郷隆盛ら旧武士層も西南戦争で敗れ、日本は完全に近代国家へと舵を切ることになります。

▼ この記事でわかること

  • 大政奉還に隠された慶喜の生存戦略
  • 戊辰戦争で幕府が負けた物理的理由
  • 明治維新が強引に進められた裏事情

📚お読みになる前に📚

徳川慶喜はなぜ政権を朝廷へ返上したのか?

撫恤令:異国船への攻撃をやめ、燃料や水を与えて帰す穏便な対応策。
大政奉還:徳川慶喜が政権を朝廷に返し、倒幕の名分を消滅させた策。
王政復古の大号令:徳川家を排除し、天皇中心の新政府樹立を宣言したクーデター。

「黒船来航」と聞くと武力屈服の印象ですが、実際は幕府の方針迷走が致命傷でした。当初は異国船を撃退する強硬策でしたが、アヘン戦争での清の惨敗を知り、薪水を与えて帰す撫恤令へと転換します。この「弱腰」とも取れる態度のブレが徳川の威信を地に落とし、国内の統制不能な混乱を招いてしまったのです。


そこで15代将軍・徳川慶喜は起死回生の一手を打ちます。それが大政奉還です。政権を朝廷に返すことで、薩長が掲げる「倒幕」の大義名分を消滅させたのです。しかし薩長も黙ってはいません。「徳川抜きで新政権を作る」とする王政復古の大号令を発し、慶喜を新体制から完全に排除しました。これは高度な政治的応酬でした。

🔍 つまりどういうこと?🔍

大政奉還は、慶喜による単なる「敗北宣言」ではなく、新政府内でも主導権を握り続けるための高度な「生存戦略」でした。しかし、薩長側はその意図を見抜き、徳川家を徹底的に排除するクーデターを強行。これにより両者の対立は修復不可能となり、武力衝突へと発展したのです。


鳥羽伏見の戦いで対峙する新政府軍と旧幕府軍の錦絵


── では、政治闘争から武力衝突へと発展した戦いの行方を見ていきましょう。

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なぜ旧幕府軍は新政府軍に勝てなかった?

戊辰戦争:鳥羽伏見から箱館まで続く、新政府と旧幕府による一連の内戦。
蛤御門の変:長州藩が京都で起こした軍事衝突。会津藩との深い遺恨の源。
彰義隊:徳川慶喜の助命を求めて上野に集結し、新政府軍と戦った部隊。

政治的な決着がつかず、事態は戊辰戦争という全面戦争へ突入します。鳥羽・伏見の戦いを皮切りに、江戸では彰義隊が抵抗、さらに戦火は北へ拡大しました。特に悲惨だったのが会津戦争です。長州藩はかつて蛤御門の変で会津に敗れた遺恨を忘れず、「藩主の首を差し出せ」と降伏を許さずに徹底的に攻撃を加えました。


兵力数では旧幕府軍が勝っていたとも言われます。なぜ敗れたのか、最大の要因は「テクノロジー格差」です。新政府軍の背後にはイギリスがつき、最新鋭の兵器や軍事システムを提供していました。旧態依然とした侍集団が近代化された軍隊に挑む構図となり、その装備の圧倒的な差が勝敗を決定づけてしまったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

戊辰戦争は単なる権力争いではなく、近代兵器を持つ新政府軍による旧体制の「掃討戦」でした。長年の遺恨が絡み合う中、欧米の技術力を味方につけた側が、数の利を持つ旧幕府側を圧倒するという結果に終わり、精神論だけでは覆せない技術格差が、勝敗を分けたのです。

💡 情報が混み合っていませんか?細かい時系列は、年号整理ページ にまとめてあります。是非ご活用ください。


明治時代の散髪脱刀令の風刺画


── では、勝利した新政府がどのような国づくりを進めたのか確認しましょう。

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明治政府が急進的な改革を断行した真意?

廃藩置県:藩を廃止して県を置き、中央政府が地方を直接統治した大改革。
徴兵令:身分に関係なく国民を兵士とし、武士の特権を奪った軍事制度。
西南戦争:不平士族を率いた西郷隆盛が新政府軍に挑み敗れた最後の内戦。

明治政府は休む間もなく廃藩置県を断行しました。これは藩を廃止し、地方の権限を中央に集める強力な中央集権化です。さらに徴兵令によって「戦うことは武士の特権」という常識を覆し、国民皆兵の近代軍を作り上げました。すべては欧米列強の植民地にならないため、焦りに似た危機感からくる急進的な改革でした。


特権を奪われた武士たちの怒りは頂点に達します。彼らの不満を背負い、かつての功労者・西郷隆盛が立ち上がったのが西南戦争です。これは「近代化の正義」「士族の誇り」の衝突でした。結果はここでもテクノロジーで勝る政府軍の勝利。西郷の死をもって国内の武力闘争は終結し、日本は近代国家への道を歩み始めます。

🔍 つまりどういうこと?🔍

明治政府の改革は、武士という特権階級を解体し、欧米に対抗できる強い中央集権国家を作るための荒療治でした。西南戦争という大きな痛みを伴いながらも、日本は「侍の国」から「国民国家」へと強引に生まれ変わり、近代化への不可逆的な一歩を踏み出したのです。


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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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まとめ:武士の時代の終焉と近代化の痛み

  明治維新は、きれいごとだけで成し遂げられたのではありません。徳川の生存戦略、薩長の執念、欧米の技術が複雑に絡み合い、多くの血が流れました。痛みと共に成立した近代国家の礎の上に、今の私たちの生活があるのです。この背景を深く知ることで、現代社会を見るあなたの視点は確実に深まるはずです。

大政奉還は徳川生き残りの戦略
戊辰戦争の勝敗は装備の技術差
明治政府は列強への対抗策

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

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❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.大政奉還はいつ行われましたか?

慶応3年(1867年)10月です。15代将軍・徳川慶喜が京都の二条城で、政権を朝廷に返上することを正式に申し出ました。

Q2.新政府軍と旧幕府軍の決定的な違いは何ですか?

バックについた外国勢力と装備の差です。イギリス支援の最新兵器を持つ新政府軍が、旧式装備の旧幕府軍を圧倒しました。

Q3.廃藩置県はなぜ必要だったのですか?

地方分権的な藩のままでは国力が分散するためです。列強に対抗するには、中央が全国の税と兵を管理する必要がありました。

[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋 この記事を書いた人 🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。


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