第四話|北条氏と元寇の全貌!鎌倉時代の流れをすっきり理解

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鎌倉幕府の実権はなぜ北条氏へ?頼朝と政子の真実|5分de探究 []
頼朝が開いた幕府の実権を、なぜ妻の実家(北条氏)が握ったのでしょうか?


悲劇の英雄・義経の影や、尼将軍・政子の演説、元寇の激戦など。武士の世が確立するまでを”5分”で紐解きます。

▼ この記事でわかること

Q. 鎌倉幕府の実権は、なぜ源氏から北条氏へ移ったのか?


頼朝没後、妻の北条政子尼将軍として幕府を導いたからです。承久の乱で朝廷に勝利し、執権政治を確立しました。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、弟・義経の英雄的な悲劇の陰に隠れ、人気を得られずにいました。頼朝の死後、妻の北条政子と北条氏が実権を掌握。朝廷が復権を狙った承久の乱では、政子の演説が武士たちを奮い立たせ、幕府の危機を救いました。

その後、名執権・北条泰時による御成敗式目で法体制が整いますが、世界帝国モンゴルのフビライ・ハンが襲来します。未曾有の国難「元寇」に、武士たちは命懸けで立ち向かいました。源氏の興亡から北条氏の台頭、そして対外戦争まで、鎌倉時代の激動を描き出します。
 

頼朝はなぜ義経より人気ない?

源頼朝:平氏を滅ぼし、鎌倉に日本初となる武家政権を樹立。初代征夷大将軍であり武士の棟梁。
源義経:壇ノ浦で平家を滅ぼした天才だが、兄の頼朝に疎まれ奥州へ逃れ、悲劇の最期を遂げた。
弁慶の立ち往生:主君の義経を守るため、無数の矢を受け、立ったまま絶命した武蔵坊弁慶の伝説。

鎌倉時代を開いた源頼朝は、日本初の武家政権を作った「ファースト侍」という偉業を成し遂げました。しかし、彼は不思議なほど人気がありません。

その最大の理由は、弟である源義経があまりにも魅力的すぎるからです。義経は戦の天才として平家を追い詰めながらも、最後は兄に裏切られて殺されるという、日本人好みの悲劇の英雄そのものだからです。




義経の物語を決定づけるのが、家来である弁慶の壮絶な最期です。主君を守るために全身に矢を受け、立ったまま死ぬ姿は、武士の忠義の極致として人々の心を震わせました。

こうした美しい悲劇があるからこそ、彼を死に追いやった頼朝は、どうしても冷酷な悪役として映ってしまいます。組織を作った政治家よりも、散りゆく英雄の方が愛されるのが常なのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

源頼朝は武家政権の創始者という偉業を成しましたが、弟の義経らが織りなす「悲劇の物語」が人々の同情を呼ぶため、不人気な立場にあります。歴史上、勝者が必ずしも人気者ではなく、日本人は特に、志半ばで散った英雄に心を寄せる「判官贔屓」の傾向が強いのです。


尼将軍として御家人を前に演説を行い、武士たちの心を掴んで承久の乱へ向かわせる北条政子の様子


── では、尼将軍・政子の活躍を見ていきましょう。

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承久の乱で武士を鼓舞した政子

北条政子:頼朝の妻。夫と子の死後に「尼将軍」として幕府の実権を握り、承久の乱を鎮めた。
後鳥羽上皇:自ら盗賊を撃退するほどの武力を持ち、幕府打倒を掲げて承久の乱を起こした上皇。
承久の乱:朝廷の復権を狙い後鳥羽上皇が挙兵したが、政子の檄で結束した幕府に鎮圧された戦い。

頼朝の死因は謎に包まれていますが、その後実権を握ったのは、なんと頼朝の妻の実家である北条氏でした。中でも北条政子は「尼将軍」と呼ばれ、強烈なリーダーシップを発揮します。

しかし、幕府の混乱を見た京都の後鳥羽上皇が、「今こそ幕府を倒す好機」と挙兵します。彼は自身で盗賊を捕まえるほどの武闘派であり、西面の武士を組織してやる気満々でした。これが承久の乱の始まりです。




動揺する東国の武士たちに対し、政子は歴史に残る演説を行います。

京都の朝廷に虐げられ、番犬のように扱われていたあなた達を、誰が一人前の武士にしてくれたのですか?頼朝公の恩は山よりも高く海よりも深いはずです」

さらに「もし裏切りたい者がいるなら、私を斬ってから行きなさい!」と言い放ち、武士たちを奮い立たせて勝利へ導いたのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

頼朝亡き後の幕府最大の危機に、北条政子は「」に訴える演説で武士団を結束させました。承久の乱での勝利は単なる戦果ではなく、武士が朝廷の権威を乗り越え、自分たちの政権を自らの手で守り抜くという、武士の自立と東国政権の確立が決定的になった瞬間なのです。

💡 情報が混み合っていませんか?細かい時系列は、年号整理ページ にまとめてあります。是非ご活用ください。


圧倒的な武力と集団戦法で日本に襲い掛かるモンゴル帝国の軍勢と、迎え撃つ鎌倉武士の激戦の様子


── では、世界帝国モンゴルの襲来を見ていきましょう。

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元寇に立ち向かった北条氏

御成敗式目:北条泰時が制定。武士による武士のためのルールを定めた、裁判の基準となる法典。
フビライ・ハン:ユーラシア大陸を支配したモンゴル帝国皇帝。二度にわたり大軍を日本に送った。
元寇:モンゴル帝国(元)が二度にわたり北九州へ襲来。日本史上最大級の国難であり防衛戦争。

国内の混乱を鎮めた後、執権の北条泰時は御成敗式目を制定しました。これは「喧嘩両成敗」などのルールを明文化したもので、武士社会の基本法となりました。

北条氏による平和
が訪れたかと思った矢先、世界最大の大帝国を築いたフビライ・ハンという強大な敵が現れます。彼は日本に対し友達(家来)になるか、死ぬかという二択を迫ってきたのです。




北条氏がこれを無視すると、フビライは圧倒的な軍事力で日本に侵攻してきました。これが元寇です。当時のモンゴル軍は、馬を自在に操る世界最強の騎馬軍団であり、集団戦法や火薬兵器を使う未知の強敵でした。

船が沈んだから助かったと誤解されがちですが、実際には敵は上陸しており、武士たちは博多の浜で死に物狂いの防衛戦を繰り広げました。

🔍 つまりどういうこと?🔍

法整備で国内を固めた北条氏の前に、世界帝国モンゴルという規格外の敵が立ちはだかりました。元寇は神風などの偶然だけで勝ったのではなく、武士たちが命懸けで戦った防衛戦です。この国難を通じて、武士政権は「国を守る存在」としての役割と責任を強く自覚しました。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「歴史は好きだけど、文字を読む時間はあまりない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

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第五話|元寇と鎌倉新仏教!幕府が恩賞不足で滅んだ理由
「元寇の勝利」が鎌倉幕府を滅ぼしたと聞いたら、あなたは信じられますか? 実は、勝利後の「恩賞問題」が武士の不満を爆発させたのです。神風の真実から新仏教の流行、そして幕府滅亡までの流れを紐解きます。

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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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結:武士が国を守った鎌倉時代

 鎌倉時代は、武士が初めて政権を持ち、様々な試練を乗り越えて自立していくプロセスでした。源頼朝の創始から北条氏による執権政治、そして元寇という外圧まで、一連の流れを知ることでこの時代の本質が見えてきます。
この記事のポイントは、以下の3つです。

幕府は政子と北条氏により盤石化
承久の乱の勝利で武士は朝廷から自立
御成敗式目と元寇が武士団をより強固に

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

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❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.源頼朝の死因は何ですか?

公式な歴史書『吾妻鏡』には記述がなく不明です。急に記録が途絶えていることから、暗殺や怨恨など、書けない事情があったと推測されます。

Q2.執権と将軍の違いは何ですか?

将軍は幕府のトップですが、執権はその補佐役です。北条氏は執権として実権を握り、将軍を形骸化させて政治を行いました。

Q3.元寇はなぜ失敗したのですか?

「神風」のみが理由ではありません。武士たちの激しい抵抗や集団戦法への対応があり、敵が撤退を余儀なくされた側面も大きいです。

各時代の FAQ は、FAQまとめページ で一気見できます。是非ご活用ください。
[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
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