大政奉還と王政復古の大号令!徳川幕府の終焉|5分de探究#090

江戸時代
大政奉還と王政復古の大号令!徳川幕府の終焉|5分de探究#090
徳川慶喜はなぜ戦える力がありながらあっさり政権を返したのでしょうか?


実はあれ、諦めたわけではなく起死回生を狙った高度な計算があったのです。その狙いと誤算、幕府崩壊を”5分”で紐解きます。

▼ この記事でわかること

Q. 大政奉還と王政復古の大号令は何が違う?幕府崩壊の真実


慶喜は政権返上による実権維持を狙うも、薩長のクーデターで領地を奪われ戦争へ発展し完全敗北しました。

15代将軍徳川慶喜は倒幕派の機先を制して政権を朝廷に返す大政奉還を決断しました。彼は新体制での実権維持を画策しましたが、薩摩や長州を中心とする岩倉具視らは王政復古の大号令を発し、徳川家の領地返納を強要します。

これに追い詰められた旧幕府軍と新政府軍は鳥羽・伏見の戦いで激突することになります。結果として新政府軍が勝利し、徳川の時代は完全に終焉を迎え、明治という不透明ながらも新しい時代が幕を開けることになったのです。

政権返上で慶喜が狙った幻の「新体制」

明治天皇:父・孝明天皇とは異なり、幕府への執着を持たず、急進的な変革を受け入れた若き君主。
大政奉還:慶喜が二条城で諸大名に宣言した、260年続いた徳川の政権を朝廷へ返上する歴史的決断。
徳川慶喜:一橋家時代から政治の中枢にあり、家茂を補佐した経験を持つ、徳川幕府最後の第15代将軍。

新しく即位した明治天皇のもと、長州と薩摩は同盟を結び、倒幕への圧力を強めていました。この危機に対し、徳川慶喜は1867年11月、二条城で大政奉還を宣言します。これは決して単なる降伏ではありません。彼は無傷の軍隊と最大の領地を維持したまま、交渉のテーブルに着くための高度な戦略をとったのです。


慶喜が描いたのは、イギリス議会のような新体制でした。天皇を象徴的元首とし、大名による上院と侍による下院を設置。そして、自分自身は最大の領主として、実質的な行政権を持つ首相のような座に就く計画でした。将軍という肩書きを捨て、逆にかつてない中央集権的な権力を新政府で手に入れようと画策していたのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

慶喜負けて勝つ戦略を取りました。形式的な政権を朝廷に返すことで、薩長から幕府を倒す名分を奪い、新政府の実質的なリーダーとして返り咲くという、極めて賢い起死回生の一手だったのです。彼は武力衝突を回避しながら徳川の力を温存し、新しい政治構造の中で主導権を握り続けようとしたのでした。


薩摩や長州の動きを監視する様子


── では、この策に敵対勢力はどう動いたか見てみましょう。

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薩長が仕掛けた辞官納地の「クーデター」

王政復古の大号令:薩摩や長州が画策し、明治天皇の名の下で発された、幕府廃止と新政府樹立を宣言した命令。
小御所会議:大久保利通や西郷隆盛らが主導し、慶喜の排除と処分を決定づけた、御所内での緊急会議。
辞官納地:慶喜に対し、内大臣の辞職と徳川家領地の朝廷への返納を求めた、新政府からの過酷な要求。

しかし、薩摩の西郷隆盛や大久保利通らは、慶喜の狙いを見抜いていました。彼らは1868年1月、クーデターとも言える小御所会議を強行し、王政復古の大号令を発します。この会議で、彼らは慶喜を新政府から完全に排除し、全ての官職と領地を没収する辞官納地を決定するという強硬手段に出たのです。


慶喜は一旦大阪城へ退去しますが、そこへ皮肉な知らせが届きます。孝明天皇の一周忌費用を、朝廷には金がないから徳川が出してくれというのです。領地を没収せよと言いつつ金は無心する。この理不尽な状況に、大阪に集まった旧幕府軍の怒りは頂点に達し、開戦を求める声はもはや抑えられないものとなりました。

🔍 つまりどういうこと?🔍

平和的な政権移行を狙った慶喜に対し、薩長側は徳川の完全な無力化を強引に推し進めました。慶喜を政治的に抹殺し、財源である領地すら奪うという挑発を行い、徳川側を武力衝突へと誘い込んだのです。彼らは議論での解決を拒否し、あえて過酷な条件を突きつけることで、旧幕府側を暴発させようと画策しました。

💡 情報が混み合っていませんか?細かい時系列は、年号整理ページ にまとめてあります。是非ご活用ください。


鳥羽伏見の戦いへ向かう旧幕府軍の行軍


── では、最後の決戦がどう始まったか確認しましょう。

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鳥羽伏見で決した徳川の「完全敗北」

薩摩藩邸焼き討ち事件:江戸での挑発に乗った旧幕府側が薩摩屋敷を攻撃した、軍事衝突の引き金となった事件。
鳥羽・伏見の戦い:京都南郊で発生した、数で勝る旧幕府軍が新政府軍の近代兵器と戦略に敗北した激戦。
戊辰戦争:鳥羽・伏見の戦いから始まり、翌年の函館五稜郭の戦いまで続いた、新政府と旧幕府の日本内戦。

ついに火蓋が切られます。江戸で薩摩藩邸焼き討ち事件が起きると、大阪の旧幕府軍は激昂し、慶喜も京都への進軍を決意。君側の奸を除くとして1868年1月、鳥羽・伏見へ向かいます。数は旧幕府軍が3対1で圧倒していましたが、新政府軍の近代的な火力錦の御旗の前に戦況は一変してしまったのです。


戦いは数日続きましたが、旧幕府軍の敗色が濃厚になると、味方だった藩が次々と寝返り始めました。これを見た慶喜は、なんと軍を置き去りにして大阪城から船で江戸へ脱出。総大将の敵前逃亡により勝敗は決しました。ここから翌年の函館まで続く戊辰戦争が始まりますが、実質的に徳川の支配はこの敗北で終わったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

数で勝っていた徳川軍は、質と政治力で勝る新政府軍に敗れました。特に慶喜の逃亡は、全国の親幕府派に衝撃を与え、時代の流れを決定づけました。これ以降、新政府による全く新しい国づくりが手探りで始まることになります。260年続いた徳川の平和は終わり、日本は近代化の荒波へ漕ぎ出したのです。


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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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歴史の転換点となった「決断」

徳川慶喜の高度な政治的駆け引きから始まった一連の出来事は、最終的に武力による決着を見ました。彼の計算は薩長勢力の情熱と策略に敗れ、260年続いた幕府は炎の中に消えました。しかし、その崩壊こそが近代国家・日本の出発点となったのです。
この記事のポイントは、以下の3つです。

政権返上で首相の座を狙った慶喜の構想
領地返納を強要武力衝突へ誘導した薩長
鳥羽伏見の敗北で終わった徳川の時代

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.慶喜はなぜ、戦う力があったのにあっさり退位したのですか?

完全に諦めたわけではありませんでした。内戦を避けつつ新政府の首相として実権を握り続ける、より有利な立場を得るための政治的策略だったのです。

Q2.大政奉還と王政復古の大号令の違いは何ですか?

前者は慶喜による自発的な政権返上です。対して後者は、薩長主導による徳川抜きの新政府樹立を宣言した命令を指します。

Q3.数で勝っていた旧幕府軍はなぜ負けたのですか?

新政府軍の近代兵器に加え、朝廷の敵となることへの動揺が響きました。さらに総大将である慶喜の敵前逃亡が決定打となったのです。

各時代の FAQ は、FAQまとめページ で一気見できます。是非ご活用ください。

[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
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