【豊臣兄弟!特集】上月城の戦い|鹿介を見殺しにした秀長!?

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【豊臣兄弟!特集】上月城の戦い|鹿介を見殺しにした秀長の非情
上月城の戦いで秀長はなぜ、盟友・鹿介を見捨てたのでしょうか?


非情な決断の裏にある、信長の命令と播磨平定への合理的戦略、そして乱世を勝ち抜くための戦略を”5分”で紐解きます。

▼ この記事でわかること

Q. 上月城の戦いで、秀長はなぜ鹿介を見殺しにしたのか?


信長の撤退命令に従い三木城攻略へ戦力を集中させるため、感情を排し合理的に切り捨てる判断をしたからです。

天正6年(1578年)、播磨の上月城を巡る攻防は、豊臣秀長の冷徹な判断力が試された運命の戦いでした。織田信長から「上月城を見捨てよ」という非情な命令が下る中、兄・秀吉と共に苦渋の決断を下します。


結果として盟友である山中鹿介ら尼子軍を見殺しにすることになりましたが、この「切り捨て」こそが、その後の三木城攻略、ひいては豊臣政権樹立への最短ルートとなりました。

上月城の悲劇と秀長の冷徹さ

織田信長:天下統一を目指して数々の革新的な政策を断行し、恐怖で家臣を統率した戦国の覇王。
播磨平定:信長の命を受けた羽柴秀吉・秀長軍が、兵庫県南部の諸勢力を従属させた軍事作戦。
毛利輝元:中国地方一帯を支配する強大な勢力を誇り、織田軍の西進を強力に阻んだ毛利家の当主。

秀吉・秀長兄弟にとって、播磨平定は天下人への重要なステップでした。しかし、その道のりは決して平坦ではありません。


彼らが攻略し、味方の尼子軍を入城させた上月城が、西国の雄である毛利輝元率いる数万の大軍に包囲されてしまったのです。多勢に無勢、城内の兵士たちの命は風前の灯火となり、早急な援軍が必要な状況に陥りました。



ここで絶対君主である織田信長から、耳を疑うような非情な命令が届きます。「上月城の尼子軍は捨て置き、三木城の攻略に専念せよ」というのです。


兄の秀吉はこの命令に苦悩し、京へ出向いて直談判まで試みますが、信長の意志は固いまま。この時、現実主義者の秀長は、感情に流されず兄を諭し、撤退という苦渋の決断を促したと考えられます。

🔍 つまりどういうこと?🔍

上月城を救いたいという感情論よりも、主君である信長の命令に従い、自分たちの軍勢を温存するという実利を優先せざるを得ませんでした。秀長はこの残酷な現実を冷静に受け止め、一時的な敗北を受け入れてでも将来の勝利を掴むために、組織としての生存戦略をシビアに選択したのです。


上月城から撤退する羽柴軍の背中と、城に残された尼子軍の絶望的な対比


── 見捨てられた城で待つ悲劇の結末を見届けましょう。

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尼子再興軍の最期と山中鹿介

山中鹿介:尼子家の再興を誓い、三日月に七難八苦を願ったことで知られる、不屈の忠義の武将。
尼子(あまご)勝久:滅亡した尼子家の当主として鹿介らに擁立され、上月城で再起を図った悲運の武将。
七難八苦:山中鹿介が三日月に祈ったとされる、主家再興のためならあらゆる苦難を受け入れる覚悟。

織田軍の撤退を知った城内の絶望は計り知れません。主君である尼子勝久と、彼を支え続けてきた忠臣・山中鹿介たちは、完全に孤立しました。


かつて三日月に「我に七難八苦を与え給え」と祈り、何度敗れても立ち上がってきた鹿介でしたが、水も食料も尽き果てた籠城戦の末、ついに力尽きて毛利軍に降伏することになります。



開城の条件は残酷なものでした。当主である尼子勝久は城兵の助命と引き換えに切腹し、名門尼子家はここに滅亡します。


一方、捕虜となった山中鹿介もまた、護送中に謀殺されるという悲劇的な最期を遂げました。秀長はこの一連の出来事を、兄を支える補佐役として、感情を表に出すことなく淡々と、しかし確実に処理していったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

七難八苦を乗り越えようとした鹿介の不屈の忠義も、時代の変化と冷徹な政治的判断の前では無力でした。秀長にとってこの悲劇は、単なる友の死ではなく、乱世を生き抜くためには時に非情な切り捨てが必要だという重い教訓となり、その後の政権運営の指針として深く心に刻まれたはずです。


三木城を包囲する無数の砦と、兵糧攻めを指揮する秀長の冷徹な眼差し


── この非情さがもたらした戦略的勝利を紐解きましょう。

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非情さが生んだ豊臣政権の礎

三木城攻め:別所長治が立て籠もる三木城を、織田軍が約2年間にわたり包囲し続けた壮絶な戦い。
別所長治:播磨の名門大名でありながら織田信長に反旗を翻し、三木城に籠城して徹底抗戦した武将。
兵糧攻め:敵の補給路を完全に断ち切り、城内の食糧を枯渇させて餓死や降伏に追い込む残酷な戦法。

上月城を見捨てたことで、秀吉・秀長軍は全戦力を三木城攻めへ集中させることができました。


敵将・別所長治は堅固な守りで抵抗しましたが、秀長たちは周囲に多数の付城を築き、約2年に及ぶ徹底的な包囲網を完成させます。これこそが後に三木の干殺しとして恐れられる、凄惨かつ合理的な兵糧攻めの始まりでした。



もし感情に任せて上月城の救援に向かっていたら、織田軍は毛利と別所の挟み撃ちに遭い、壊滅していたかもしれません。


別所長治を降伏させ、播磨を平定できたのは、秀長が兵糧攻めという地味で残酷な任務を、忍耐強く遂行したからです。彼の調整能力と冷徹なリアリズムが、兄・秀吉の天下統一事業を陰から支える強固な土台となりました。

🔍 つまりどういうこと?🔍

一見すると非情な決断は、より大きな勝利を得るための計算された布石でした。秀長は「嫌な役回り」「残酷な戦術」を率先して引き受けることで、軍全体のリスクを最小限に抑え、確実に成果を出すという豊臣政権独自の勝ちパターンを確立し、最強のNo.2としての地位を不動のものにしたのです。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「教養として、色々学んでおきたいけど時間ない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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結:秀長の非情な決断の真意

上月城の戦いは、秀吉と秀長にとって、理想と現実の狭間で揺れ動いた試練でした。しかし、そこで情を捨てて信長の命令に従い、鹿介を見殺しにするという「非情」を選んだからこそ、彼らは播磨を制圧し、天下統一への切符を手にできたのです。秀長の冷徹さは冷酷さではなく、乱世を生き抜くための高度な知恵だったと言えるでしょう。
この記事のポイントは、以下の3つです。

信長の命令に従い尼子軍を見捨てた
鹿介の悲劇と秀長の淡々とした処理
三木城攻略を成功させた合理的思考

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.上月城の戦いは、いつ頃どこで行われたのですか?

天正6年(1578年)、現在の兵庫県佐用町にある上月城で行われました。毛利軍と織田軍(羽柴軍)の激しい攻防が繰り広げられた古戦場です。

Q2.秀長は、秀吉と比べてどのような性格だったのですか?

派手で感情豊かな秀吉に対し、秀長は温厚かつ調整能力に優れたリアリストでした。兄の暴走を止め、実務を完璧にこなす「名補佐役」として知られています。

Q3.なぜ「見殺し」にすることが正解だったと言えるのですか?

感情論で援軍を送れば共倒れになるリスクが高かったからです。損切りをして戦力を集中させるという戦略的判断が、結果的に最大の成果を生みました。

各時代の FAQ は、FAQまとめページ で一気見できます。是非ご活用ください。
[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
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