▼ この記事でわかること
天正6年(1578年)、播磨の上月城を巡る攻防は、豊臣秀長の冷徹な判断力が試された運命の戦いでした。織田信長から「上月城を見捨てよ」という非情な命令が下る中、兄・秀吉と共に苦渋の決断を下します。
結果として盟友である山中鹿介ら尼子軍を見殺しにすることになりましたが、この「切り捨て」こそが、その後の三木城攻略、ひいては豊臣政権樹立への最短ルートとなりました。
上月城の悲劇と秀長の冷徹さ
秀吉・秀長兄弟にとって、播磨平定は天下人への重要なステップでした。しかし、その道のりは決して平坦ではありません。
彼らが攻略し、味方の尼子軍を入城させた上月城が、西国の雄である毛利輝元率いる数万の大軍に包囲されてしまったのです。多勢に無勢、城内の兵士たちの命は風前の灯火となり、早急な援軍が必要な状況に陥りました。
ここで絶対君主である織田信長から、耳を疑うような非情な命令が届きます。「上月城の尼子軍は捨て置き、三木城の攻略に専念せよ」というのです。
兄の秀吉はこの命令に苦悩し、京へ出向いて直談判まで試みますが、信長の意志は固いまま。この時、現実主義者の秀長は、感情に流されず兄を諭し、撤退という苦渋の決断を促したと考えられます。
🔍 つまりどういうこと?🔍
上月城を救いたいという感情論よりも、主君である信長の命令に従い、自分たちの軍勢を温存するという「実利」を優先せざるを得ませんでした。秀長はこの残酷な現実を冷静に受け止め、一時的な敗北を受け入れてでも将来の勝利を掴むために、組織としての生存戦略をシビアに選択したのです。

── 見捨てられた城で待つ悲劇の結末を見届けましょう。
尼子再興軍の最期と山中鹿介
織田軍の撤退を知った城内の絶望は計り知れません。主君である尼子勝久と、彼を支え続けてきた忠臣・山中鹿介たちは、完全に孤立しました。
かつて三日月に「我に七難八苦を与え給え」と祈り、何度敗れても立ち上がってきた鹿介でしたが、水も食料も尽き果てた籠城戦の末、ついに力尽きて毛利軍に降伏することになります。
開城の条件は残酷なものでした。当主である尼子勝久は城兵の助命と引き換えに切腹し、名門尼子家はここに滅亡します。
一方、捕虜となった山中鹿介もまた、護送中に謀殺されるという悲劇的な最期を遂げました。秀長はこの一連の出来事を、兄を支える補佐役として、感情を表に出すことなく淡々と、しかし確実に処理していったのです。
🔍 つまりどういうこと?🔍
七難八苦を乗り越えようとした鹿介の不屈の忠義も、時代の変化と冷徹な政治的判断の前では無力でした。秀長にとってこの悲劇は、単なる友の死ではなく、乱世を生き抜くためには時に非情な「切り捨て」が必要だという重い教訓となり、その後の政権運営の指針として深く心に刻まれたはずです。

── この非情さがもたらした戦略的勝利を紐解きましょう。
非情さが生んだ豊臣政権の礎
上月城を見捨てたことで、秀吉・秀長軍は全戦力を三木城攻めへ集中させることができました。
敵将・別所長治は堅固な守りで抵抗しましたが、秀長たちは周囲に多数の付城を築き、約2年に及ぶ徹底的な包囲網を完成させます。これこそが後に「三木の干殺し」として恐れられる、凄惨かつ合理的な兵糧攻めの始まりでした。
もし感情に任せて上月城の救援に向かっていたら、織田軍は毛利と別所の挟み撃ちに遭い、壊滅していたかもしれません。
別所長治を降伏させ、播磨を平定できたのは、秀長が兵糧攻めという地味で残酷な任務を、忍耐強く遂行したからです。彼の調整能力と冷徹なリアリズムが、兄・秀吉の天下統一事業を陰から支える強固な土台となりました。
🔍 つまりどういうこと?🔍
一見すると非情な決断は、より大きな勝利を得るための計算された布石でした。秀長は「嫌な役回り」や「残酷な戦術」を率先して引き受けることで、軍全体のリスクを最小限に抑え、確実に成果を出すという豊臣政権独自の勝ちパターンを確立し、最強のNo.2としての地位を不動のものにしたのです。
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── 最後に、この記事のまとめとFAQでおさらいしましょう。
結:秀長の非情な決断の真意
上月城の戦いは、秀吉と秀長にとって、理想と現実の狭間で揺れ動いた試練でした。しかし、そこで情を捨てて信長の命令に従い、鹿介を見殺しにするという「非情」を選んだからこそ、彼らは播磨を制圧し、天下統一への切符を手にできたのです。秀長の冷徹さは冷酷さではなく、乱世を生き抜くための高度な知恵だったと言えるでしょう。
この記事のポイントは、以下の3つです。
‣信長の命令に従い尼子軍を見捨てた
‣鹿介の悲劇と秀長の淡々とした処理
‣三木城攻略を成功させた合理的思考
ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。
Q1.上月城の戦いは、いつ頃どこで行われたのですか?
天正6年(1578年)、現在の兵庫県佐用町にある上月城で行われました。毛利軍と織田軍(羽柴軍)の激しい攻防が繰り広げられた古戦場です。
Q2.秀長は、秀吉と比べてどのような性格だったのですか?
派手で感情豊かな秀吉に対し、秀長は温厚かつ調整能力に優れたリアリストでした。兄の暴走を止め、実務を完璧にこなす「名補佐役」として知られています。
Q3.なぜ「見殺し」にすることが正解だったと言えるのですか?
感情論で援軍を送れば共倒れになるリスクが高かったからです。損切りをして戦力を集中させるという戦略的判断が、結果的に最大の成果を生みました。
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます















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