【豊臣兄弟!特集】備中高松城水攻め|堤防を作ったのは秀長!

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【豊臣兄弟!特集】備中高松城水攻め|堤防を作ったのは秀長だ
歴史の授業で習ったあの水攻め、実は誰が成功させたかご存じですか?


兄の影で難工事を完遂した、弟の実務能力と、現代の仕事にも生きる調整力の極意。その全貌を”5分”で紐解きます。

▼ この記事でわかること

Q. 備中高松城の水攻めで堤防を作ったのは誰だったのか?


実務家の豊臣秀長です。破格の報酬で民を動かし、わずか12日間堤防を築く手腕を発揮しました。

歴史の授業で習った「備中高松城の水攻め」。実はこの奇策を成功させた最大の功労者は、兄の影に隠れがちな弟である豊臣秀長でした。

全長約3キロメートルもの堤防をわずか12日間で築き上げた驚異のプロジェクトマネジメント力と、敵将である清水宗治との講和を迅速にまとめた外交手腕に注目です。本能寺の変の裏で起きていた、実務家・秀長の知られざる仕事ぶりに迫ります。

奇策を現実に変えた秀長の手腕

備中高松城:岡山市北区に位置し、周囲を深い沼地に囲まれた要害。織田軍の侵攻を阻んだ難攻不落の城。
羽柴秀長:天下人となる秀吉の異父弟であり、温厚な人柄と卓越した実務能力で兄を支え続けた。
水攻め:城の周囲に巨大な堤防を築いて川の水を流し込み、城を水没させて補給路を断つ大規模な戦法。

誰もが知る有名な戦いですが、現場の指揮官まではご存じないかもしれません。天正10年、秀吉軍は毛利方の備中高松城を包囲しましたが、深い沼地に阻まれ攻撃できませんでした。

そこで採用されたのが前代未聞の水攻めという奇策です。この壮大な作戦の実質的な総監督を任され、難局を打開した人物こそが羽柴秀長でした。



発案者は黒田官兵衛と言われますが、それを絵空事で終わらせず実行したのは秀長の卓越した実務能力です。彼は兄の意図を汲み、兵士や住民を統率して巨大な土木工事に着手しました。

地図上の作戦を現実の地形に落とし込む作業は、まさに現代の大規模プロジェクトそのものです。秀長の冷静な判断なくして、歴史的勝利はあり得ませんでした。

🔍 つまりどういうこと?🔍

派手な発想を持つ兄の秀吉に対し、弟の羽柴秀長はそれを確実に形にする最強の実行部隊長でした。困難極まる水攻めを成功に導けたのは、机上の空論を現実に変える秀長の手堅いマネジメント能力があったからこそです。夢想家と実務家という兄弟の絶妙な役割分担が、不可能を可能にしました。


工事現場のイラスト


── では、具体的な工事の内容を見ましょう。

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短期間で堤防を築いた驚異の技

蛙ヶ鼻(かわずがはな):備中高松城の南東に位置し、堤防建設の起点となった場所。一部が保存されている。
築堤奉行:堤防工事の現場監督を務めた役職。蜂須賀正勝や浅野長政らが任命され、工事を管理した。
銭一貫文:土嚢を1つ運ぶごとに支払われた当時の貨幣単位で、現在の価値では数万円にも相当する。

秀長の指揮で築かれた堤防は、全長約3キロメートルにも及ぶ巨大なものでした。工事拠点の蛙ヶ鼻から水をせき止めるため、彼は腹心の部下を築堤奉行に任命し、昼夜を問わず作業を進めさせます。

驚くべきは、この大工事がわずか12日間で完了したという事実です。重機もない時代に、これほどのスピード施工が可能だったのはなぜでしょうか。



秘密は秀長が採用した巧みなインセンティブ設計にあります。彼は近隣住民に対し、土嚢を1袋積めば銭1貫文米1升を与えると触れ回りました。

現在の価値で数万円に相当する破格の報酬です。これに釣られて農民が殺到し、人海戦術で瞬く間に堤防が完成しました。人の心を動かして目標を達成する、秀長の鋭い経済感覚が光ります。

🔍 つまりどういうこと?🔍

秀長は精神論だけで人を動かそうとはせず、適切な報酬を用意することで短期間での大工事を成功させました。目的のために必要なリソースを確保し、関わる全員にメリットを与える仕組み作りこそが彼の真骨頂です。情熱だけでなくそろばん勘定もできる点が、有能な実務家の証と言えます。


交渉する武将のイラスト


── では、戦いの結末へ進みましょう。

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宗治の命を背負った講和の結末

清水宗治:備中高松城の城主。籠城戦の末に、部下5000人の助命のため自らの腹を切った義将。
安国寺恵瓊(あんこくじ えけい):毛利氏に仕えた外交僧であり、秀吉側との和平交渉における窓口役。
本能寺の変:天正10年に、京都で織田信長が明智光秀に討たれた事件。戦国の勢力図が劇的に変わった。

水攻めの最中、京都から衝撃の知らせが届きます。6月2日に本能寺の変が勃発し、主君の信長が横死したのです。

情報が漏れれば秀吉軍は窮地に立たされるため、一刻も早い講和と撤退が必要でした。秀長は毛利の外交僧である安国寺恵瓊との交渉を急ぎ、城主の切腹を条件に城兵を助けるという内容で、速やかに合意を取り付けます。



6月4日、水没した城から小舟を出し、清水宗治は潔く腹を切りました。この最期を見届けた直後、秀吉軍は全速力で撤退を開始します。

世に言う「中国大返し」が可能だったのは、秀長が冷徹に講和のタイミングをコントロールしたからです。感情に流されず、状況変化に合わせて即座に次の一手を打つ判断力が、豊臣政権樹立の起点となりました。

🔍 つまりどういうこと?🔍

予期せぬトラブルが発生した際こそ、真の実力が問われます。秀長は信長の死という最大の危機にあっても動じず、冷静に交渉をまとめ上げました。彼の卓越した危機管理能力がなければ、秀吉が天下人になる未来は閉ざされていたでしょう。ピンチをチャンスに変える冷静さが成功の鍵でした。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「教養として、色々学んでおきたいけど時間ない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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まとめ:秀長こそが真の立役者

備中高松城水攻めは、単なる奇抜な戦術ではありません。それを支えたのは、豊臣秀長という稀代の実務家による緻密な計算と、人を動かす仕組み作りでした。兄の夢を現実にするために汗をかき、泥にまみれた弟の存在。歴史の表舞台には出にくい「調整役」の重要性を、この戦いは教えてくれます。現代にも通じる仕事の極意です。
この記事のポイントは、以下の3つです。

空論を現実に変える実行力
対価で人を動かす仕組み作り
危機でも動じない交渉能力

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.水攻めの堤防は今も残っていますか?

はい、岡山市北区の高松城址公園周辺に、蛙ヶ鼻築堤跡としてその一部が現在も残っています。歴史の転換点となった現場の空気を肌で感じることができる貴重なスポットです。

Q2.秀長と官兵衛、どちらが功労者ですか?

発案は官兵衛、実行は秀長と明確な役割分担がありました。どちらの能力が欠けてもこの作戦は成功しなかったため、両者による最強のチームプレーの結果だと言えます。

Q3.現代の仕事で秀長から何を学べますか?

適切な報酬を提示してチームのモチベーションを高める手法や、突発的な危機に際しても動じずに冷静に対処する姿勢は、現代のプロジェクト管理にもそのまま通じます。

各時代の FAQ は、FAQまとめページ で一気見できます。是非ご活用ください。
[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
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