【豊臣兄弟!特集】山崎の戦い|光秀を討つ先鋒秀長の指揮力!

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【豊臣兄弟!特集】山崎の戦い|光秀を討つ先鋒・秀長の指揮力
秀吉の天下取りを決定づけた戦いで、弟・秀長の役割をご存じですか?
実は彼こそが勝敗の鍵を握る真の立役者でした。山崎の戦いでの、知られざる名将の活躍を”5分”で紐解きます。

▼ この記事でわかること

Q.山崎の戦いで豊臣秀長はどのような活躍をしたのか?

稀代の調整役として兵站を支え、戦場では天王山麓を死守光秀を包囲し兄の天下を決定づけた。

天正10年、兄・秀吉の天下取りを決定づけた山崎の戦い。この決戦で、弟・秀長が果たした役割をご存じでしょうか。彼は単なる補佐役にとどまらず、最前線で味方の士気を高め、勝敗の鍵となる天王山の麓を死守しました。

明智光秀
を追い詰めたのは、秀吉のカリスマ性だけでなく、秀長の冷静沈着な現場指揮があったからです。豊臣兄弟が連携して掴んだ勝利の裏側を、秀長の視点から紐解きます。

戦いを制した秀長の現場指揮

中国大返し:主君信長の仇を討つため、備中高松から京都へ全軍を驚異的な速度で戻した大行軍。
天正10年:天下人の織田信長が、京都の本能寺で家臣の明智光秀に討たれる本能寺の変が起きた。
山崎:現在の京都府と大阪府の境に位置しており、西国から京へ入る際に必ず通る交通の要所。

歴史の教科書では、本能寺の変を知った秀吉が、猛スピードで京都へ引き返した中国大返しが有名ですよね。しかし、約2万もの大軍を短期間で移動させる離れ業は、秀吉一人の力では不可能です。

ここで実務を取り仕切ったのが弟の秀長でした。彼は天正10年の6月、備中高松城の攻防戦から一転、全軍を統率して東へと走らせました。




秀長は、姫路城での休憩もそこそこに、疲弊した兵士たちを鼓舞しながら山崎を目指しました。ここは西国から京都へ入る関門であり、先に押さえた方が有利になる地形です。

秀長は兄の意図を理解し、決戦の地へ誰よりも早く到着できるよう兵站や行軍の管理を徹底しました。この迅速な行動こそが、明智光秀に対する最大の武器となったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

秀吉の中国大返しが成功したのは、秀長が裏方として兵士の管理や移動計画を完璧に遂行したからです。彼らは重要な防衛ラインである山崎を敵より早く確保することで、戦う前から有利な状況を作り出しました。このように、派手な戦闘の前段階で勝敗を決する準備を整えていた点が、秀長の非凡な才能といえるでしょう。


天王山と麓の戦場を見下ろすイメージ図


── では、実際の戦いを見ていきましょう。

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中川清秀との連携で天王山死守

中川清秀:摂津茨木城の城主であり、山崎の戦いにおいては右翼の先鋒として最前線で戦った猛将。
高山右近:摂津高槻城主であり、中川清秀と共に山崎の戦いにおいて先陣を務めたキリシタン大名。
天王山:山崎の戦いにおいて、その山頂や麓を制した方が戦局を圧倒的に有利に運べるとされた山。

いざ合戦が始まると、秀長は本陣で兄の横に座っていたわけではありません。彼は右翼部隊の指揮官として、最前線に配置された摂津衆の高山右近中川清秀を支える重要なポジションに就きました。

特に中川清秀は、光秀軍と直接ぶつかる危険な場所に布陣しており、彼らが崩れれば秀吉本隊まで危険にさらされる状況でした。




よく天王山の戦いと言われますが、実際に山頂付近やその麓の要所を確保し続けたのは、この右翼部隊の働きによるものです。

秀長は、黒田官兵衛らと共に彼らの後方に陣取り、ここは絶対に引くなと睨みを利かせつつ、援護射撃を行いました。この鉄壁の連携により、明智軍は高所を取れず、平地での苦しい戦いを強いられることになったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

秀長は右翼の司令塔として、最前線の中川清秀高山右近をバックアップしました。彼らが天王山の麓を死守したおかげで、地形的な優位性を保ち続け、明智軍を不利な状況へ追い込むことができたのです。主役級の武将たちを背後から支え、崩れそうな戦線を維持し続けた彼の手腕が、戦いの流れを決定づけたといえます。


円明寺川を挟んで対峙する両軍のイメージ図


── では、決着の瞬間を確認しましょう。

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光秀の誤算と秀長の冷静な包囲網

明智光秀:主君である織田信長を本能寺で討ち、天下を狙ったが、山崎の戦いで秀吉に敗北した武将。
斎藤利三:明智光秀の重臣であり、山崎の戦いにおいては先鋒として羽柴軍に猛攻撃を仕掛けた武将。
円明寺川:山崎の戦いにおいて、羽柴秀吉軍と明智光秀軍がこの川を挟んで対峙し激しく激突した川。

明智光秀の最大の誤算は、期待した味方が現れず、目の前の羽柴軍が予想以上に強固だったことです。

光秀軍主力の斎藤利三隊は、円明寺川を挟んで果敢に攻撃を仕掛けましたが、秀長指揮の右翼部隊は一歩も引きませんでしたそれどころか、秀長は敵の疲れが見えた瞬間を見逃さず、側面から包み込むような動きを見せます。




この時、秀長の冷静な判断が光りました。無理に突撃せず、池田恒興ら他部隊と連携し、光秀本隊を徐々に圧迫していったのです。逃げ場を失った明智軍は総崩れとなり、光秀は勝龍寺城へと敗走しました。

派手な一騎打ちではなく、こうした組織的な包囲網を敷ける指揮官がいたことこそ、羽柴軍の本当の強さだったと言えるでしょう。

🔍 つまりどういうこと?🔍

秀長は敵の猛攻を耐え凌いだ後、味方と連携して敵を側面から包囲しました。個人の武勇に頼るのではなく、組織力明智光秀を追い詰めたこの戦いぶりこそが、確実な勝利をもたらした要因です。感情に流されず、勝てるタイミングを冷静に見極めて全体を動かす指揮能力こそが、彼の真骨頂だったといえるでしょう。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「教養として、色々学んでおきたいけど時間ない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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結:天下を導いた秀長の功績

山崎の戦いは秀吉の天下取りの第一歩でしたが、それを現場で支えたのは間違いなく秀長の指揮力でした。彼は大返しでの兵站管理から実戦での右翼指揮まで、常に兄の不足を補う動きを見せました。天王山麓を死守し、組織的な戦いで光秀を圧倒した彼の功績は、もっと評価されるべきでしょう。彼のような存在こそが、組織を勝利へ導く鍵となるのです。
この記事のポイントは、以下の3つです。

大返しを支えた迅速な兵站管理
天王山麓を死守した前線指揮
組織力で光秀を包囲した戦術眼

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.山崎の戦いはいつ、どこで行われましたか?

天正10年(1582年)6月13日、現在の京都府大山崎町周辺で行われました。本能寺の変からわずか11日後の出来事です。

Q2.秀長と官兵衛の関係性はどうでしたか?

二人は共に秀吉を支える両輪のような存在でした。山崎の戦いでも同じ場所(天王山麓)に陣取り、緊密に連携して指揮を執りました。

Q3.なぜ秀長はあまり有名ではないのですか?

兄・秀吉の陰で調整役に徹することが多かったためです。しかし、彼の実務能力と人望がなければ、豊臣政権は成立しなかったと言われています。

各時代の FAQ は、FAQまとめページ で一気見できます。是非ご活用ください。
[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
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