【豊臣兄弟!特集】紀州征伐|雑賀衆を殲滅した秀長の冷徹さ!

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【豊臣兄弟!特集】紀州征伐|雑賀衆を殲滅した秀長の冷徹さ
温厚な豊臣秀長が、なぜ非道な虐殺に手を染めたのでしょうか?


紀州征伐の裏側には、平和な世を急ぐあまりの冷酷で合理的な決断がありました。その真実を”5分”で紐解きます。

▼ この記事でわかること

Q. 豊臣秀長による紀州征伐で 雑賀衆はどう殲滅されたか?


根来寺を焼き払い太田城水攻めにして降伏させ、藤堂高虎らを用い指導者層を騙し討ちで処刑しました。

豊臣秀吉の天下統一を陰で支えた弟、秀長。温厚な調整役というイメージが強い彼ですが、天正13年の紀州征伐では、戦国最強の傭兵集団である雑賀衆を根絶やしにする冷徹な一面を見せました。

太田城の水攻め
や大量処刑など、実利を優先した彼の決断は、平和な世を創るための必要悪だったのでしょうか。根来寺焼討藤堂高虎の暗躍など、史実に基づき秀長の知られざる高い軍事才覚と冷徹なリアリズムに迫ります。

根来寺を焼き払い太田城を水攻め

紀州征伐:秀吉の命を受けた秀長が、雑賀衆や根来衆などの抵抗勢力を平定した天正13年の軍事行動。
太田城:雑賀衆の残党が籠城したが、秀長によって周囲に堤防を築かれ、水攻めにされて降伏した城。
根来寺:多くの僧兵を擁して秀吉に抵抗したが、秀長軍によって全山を焼き討ちされ、壊滅した寺院。

秀長は「調整型の良き補佐役」と思われがちですが、軍事司令官としても極めて合理的でした。天正13年、彼は兄の命を受け10万の大軍で紀伊へ侵攻します。これが紀州征伐です。

まず、敵の精神的支柱であった巨大宗教都市・根来寺を標的としました。躊躇なく全山を焼き払うことで、敵の戦意を根本からへし折る戦略をとったのです。




恐怖に駆られた残党は太田城に逃げ込み抗戦します。しかし秀長が見せたのは、力押しではなく緻密な土木工事でした。

周囲に約6キロメートルの堤防を築き、紀ノ川の水を引き込み水没させたのです。この「水攻め」は、味方の損害を最小限に抑えつつ、相手を確実に死に至らしめる、秀長の冷徹な計算に基づいた戦術でした。

🔍 つまりどういうこと?🔍

秀長は敵の精神的拠点を焼き払って心理的優位に立ち、さらに水攻めという物理的に逃げ場のない状況を作り出しました。情けをかけずに自軍のリスクを排除して勝利を確定させる、プロフェッショナルな指揮官だったのです。これこそが、彼が貫いた徹底した実利主義であり、乱世を終わらせるための最適解でした。


本陣で地図を広げながら冷ややかな目で次の策を練る豊臣秀長のイラスト


── さらに、降伏後の処置を見てみましょう。

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降伏許さず雑賀衆を計略で処刑

雑賀衆(さいかしゅう):強力な鉄砲隊を駆使し信長をも苦しめた、紀伊半島を拠点とする中世的な武装集団。
藤堂高虎:秀長の家臣として築城や謀略の実務を担い、後に築城の名手として知られることになった武将。
千石堀城:筒井順慶らが激しく攻め込み、守備兵だけでなく女性や子供まで皆殺しとなった激戦地。

戦国時代、降伏した敵将を許すことは珍しくありません。しかし秀長は違いました。信長をも苦しめた雑賀衆という存在を、危険因子として抹消しようとしたのです。

序盤の千石堀城の攻防戦では、配下の部隊が猛攻を仕掛け、城内の守備兵のみならず女性や子供まで含めた、数千人を撫で斬りにするという惨劇を引き起こしました。




太田城でも開城交渉が行われましたが、その裏で秀長は腹心の藤堂高虎らを用い厳しい処断を下します。

一説には、助命を条件に開城させた直後、武装解除した指導者層50名余りを騙し討ちにし処刑したとも伝わります。彼は、反乱に加担してきた傭兵たちを生かしておけば後の災いになると断じ、徹底的な殲滅を選んだのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

過去のしがらみを断ち切るため、秀長は伝統的な武士の情けを捨て去りました。将来の反乱の芽を完全に摘むためなら、騙し討ち皆殺しも辞さない覚悟を持っていたのです。それが彼なりの正義であり、非常時における指導者が下すべき、冷徹かつ合理的な決断だったと言えるでしょう。


紀ノ川を流れる大量の材木とそれを検分する役人のイラスト


── 戦いの後は、統治者としての顔に迫ります。

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木材流通を掌握し検地を行う

紀ノ川:吉野から産出される木材を運搬する大動脈で、秀長が支配権を確立して経済基盤とした河川。
惣無事令(そうぶじれい):大名間の私闘を禁じ、豊臣政権への完全な服従を強制するために出された。
太閤検地:土地の生産力を石高という統一基準で把握し、農兵分離を進めることで支配体制を築いた。

武力制圧が完了すると、秀長は即座に統治システムを構築します。特に注目すべきは経済基盤の確立です。紀伊山地は木材の宝庫であり、紀ノ川はその運搬ルートでした。

秀長はこの水運を掌握し、後の大坂城や寺社仏閣の再建に必要な資材を独占的に確保します。戦いだけで終わらせず、次の国家事業を見据えた資源管理を行ったのです。




また、刀狩りと並行して太閤検地を厳格に実施しました。寺社勢力や地侍が曖昧にしていた権利関係を洗い出し、納税体制を盤石にします。

後の九州征伐に先駆けて出された惣無事令の精神を体現するかのように、彼は紀伊という複雑な土地を「私闘のない、豊臣の法が支配する国」へと、強引かつ迅速に作り変えていったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

秀長の真骨頂は、焦土と化した戦場をすぐさま金のなる木に変えた手腕にあります。軍事的な勝利を、物流の支配と税収の安定という永続的な利益に迅速に変換した点こそ、彼が優れた実務官僚であった証拠です。この卓越した統治能力こそが、豊臣政権の屋台骨を力強く支えていたのでした。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「教養として、色々学んでおきたいけど時間ない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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結:実利を追求した宰相の決断

豊臣秀長による紀州征伐は、単なる地方の平定戦ではありませんでした。それは、中世的な独立勢力を近代的な軍隊と物流システムで完全に制圧した、時代の転換点です。

情を挟まない彼の冷徹さは、乱世を終わらせるための外科手術のようなものでした。実利を追求し続けた彼の仕事ぶりから、私たちは多くのことを学べます。
この記事のポイントは、以下の3つです。

根来寺焼討による心理的制圧
降伏を許さぬ徹底的な殲滅戦
物流と検地による戦後統治

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.紀州征伐はいつ行われましたか?

天正13年(1585年)の3月から4月にかけて行われました。秀吉が関白になる直前の、権力基盤を固める重要な時期の出来事です。

Q2.雑賀衆はその後どうなったのですか?

多くの指導者が処刑され、武装集団としての力は失われました。一部は帰農するか、あるいは大名の鉄砲組として各地に散らばりました。

Q3.なぜ秀長はここまで冷徹だったのですか?

兄・秀吉の天下統一を最速で成し遂げるためです。背後の不安要素を完全に消し去ることで、政権の安定を図る合理的な判断でした。

各時代の FAQ は、FAQまとめページ で一気見できます。是非ご活用ください。
[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
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