【豊臣兄弟!特集】海賊停止令|瀬戸内海を支配した秀長の戦略

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【豊臣兄弟!特集】海賊停止令|瀬戸内海を支配した秀長の戦略
秀吉の天下統一を陰で支えた、弟秀長の海の戦略をご存知ですか?


荒れる瀬戸内海を平定し、無法者の海賊を正規軍へと変貌させる。巨大な物流網を築き上げた手腕を”5分”で紐解きます。

▼ この記事でわかること

Q. 海賊停止令で秀長は、いかにして瀬戸内海を支配したか?


無法な海賊行為を禁じ、知行を与えて正規軍水軍へ再編することで、強固な物流ルートを確立しました。

天正16年(1588年)、豊臣秀吉は海賊停止令を発布し、中世的な海の支配に終止符を打ちました。この政策の裏には、実弟・豊臣秀長による緻密な戦略が存在します。秀長は紀伊・和泉を領国として抑え、瀬戸内海の物流ルートを確保。

さらに藤堂高虎などの重臣を用い、在地勢力だった海賊たちを豊臣正規軍の水軍へと再編しました。秀長がいかにして荒れる海を「天下の公道」へと変えたのか、その実務手腕を解説。

秀吉の天下を支えた海の補給路

海賊停止令:豊臣秀吉が天正16年に発令し、海賊行為を禁じ海上交通の安全を図った重要法令。
村上水軍:瀬戸内海を拠点に活動し、戦国大名とも渡り合い通行料を徴収した、最大の海賊衆。
兵糧(ひょうろう):戦時において、軍隊が作戦行動を維持するために不可欠な米や塩などの食料物資。

天下統一を目指す豊臣軍にとって、最大の懸念は「西国遠征における補給線の確保」でした。特に天正15年の九州征伐では、数十万の大軍を養う莫大な兵糧を、大阪から九州へ遅滞なく送る必要がありました。

しかし、当時の瀬戸内海は村上水軍など海の武装集団が割拠しており、安全な輸送は困難を極めていたのです。




そこで秀吉が出した切り札が、天正16年の海賊停止令です。これは単に海賊行為を禁じるだけでなく、海の支配権を「私的なもの」から「公的なもの」へ転換させる革命的政策でした。

この実効性を担保するため、物流の要衝である紀伊などを支配していた弟の豊臣秀長が、現場での調整と監視という重責を担うことになります。

🔍 つまりどういうこと?🔍

秀吉が天下を取るためには、大量の物資を運ぶ海の安全確保が不可欠でした。そこで海賊停止令を出して海を国の管理下に置き、実務能力に長けた弟の豊臣秀長が、その命令を現実に定着させる役割を果たしたのです。こうして豊臣軍は、西国遠征を支える安定した補給路を手に入れたのです。


荒波を超える安宅船の船団


── では、秀長の手腕を見てみましょう。

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海賊を大名へ変えた実務手腕

小早川隆景:毛利元就の3男で、秀吉に協力し瀬戸内海の支配権確立に貢献した、五大老の賢将。
能島(のしま)村上水軍の拠点の1つであり、潮流の激しい瀬戸内海に浮かぶ天然の要害である島。
知行(ちぎょう)主君が家臣に対して、領地を与えてその土地の支配や徴税を認める給与の仕組み。

海賊停止令の施行は、在地勢力の激しい反発を招く恐れがありました。彼らにとって通行料の徴収は貴重な収入源だったからです。

秀長はこの難局に対し、毛利水軍の将である小早川隆景と密接に連携しました。特に最大の勢力であった能島村上氏には、海賊としての自立権を奪う代わりに、豊臣政権下の大名として知行を与える道を示しました。




これは海賊という無法者を、正規軍である「」として再雇用するプロセスです。秀長は能島を本拠とする村上武吉らに対し、海賊行為を続ければ厳罰に処すが従えば領地を保証するという硬軟織り交ぜた交渉を行いました。

結果、彼らは筑前などに所領を得て移住し、瀬戸内海の要衝は信頼できる武将が直接管理するようになったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

ただ禁止するだけでなく、海賊たちに正規の武士としての給料である知行と地位を与えることで、反乱を防ぎながら体制側に組み込みました。秀長と小早川隆景の連携が、海の無法地帯を統治可能な組織へと変えたのです。瀬戸内海は、豊臣家が完全に支配する「平和な海」となりました。


紀州の入り組んだ海岸線と城郭


── 次に、紀州での動きを見ましょう。

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水軍大将を育てた紀伊の支配

藤堂高虎:秀長に仕え、築城技術や水軍指揮で才能を発揮した。のちに伊勢津藩主となる大名。
紀伊国:現在の和歌山県と三重県南部にあたり、強力な水軍勢力や寺社勢力が存在していた地域。
雑賀衆(さいかしゅう)紀伊国を拠点に鉄砲を高度に駆使し、信長ら中央権力に激しく抵抗した集団。

天正13年の紀州征伐後、秀長は紀伊国と和泉国を拝領しました。この地は古くから雑賀衆などの強力な在地勢力が存在し、高い軍事技術を持っていました。

秀長は彼らを弾圧せず、家臣団に積極的に取り込みます。この時、紀伊の粉河で代官として手腕を振るい、紀州水軍の指揮官として頭角を現したのが藤堂高虎です。




秀長は和歌山城の築城と並行して、木材の産地である紀伊の特性を活かした「造船プロジェクト」を推進しました。藤堂高虎の指揮下で建造された大型船団は、後の九州征伐において兵員や物資の輸送を一手に引き受けます。

かつて信長を苦しめた雑賀衆の技術力と、秀長の経済力に藤堂高虎の統率力が融合し、豊臣政権の海上戦力の中核が完成したのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

秀長は領地となった紀伊の武装勢力を味方につけ、その高い技術力を吸収しました。藤堂高虎に指揮を任せて強力な水軍を作り上げ、それを豊臣軍全体の「物流インフラ」として機能させたのです。かつての敵を最強の味方に変える秀長の人材活用術が、ここでも遺憾なく発揮されました。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「教養として、色々学んでおきたいけど時間ない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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結:静かなる巨星が遺した航路

1588年、豊臣秀吉の海賊停止令の政策の裏には、実弟・豊臣秀長による緻密な戦略が存在しました。秀長は紀伊・和泉を領国として抑え、瀬戸内海の物流ルートを確保。

さらに藤堂高虎などの重臣を用い、在地勢力だった海賊たちを豊臣正規軍の水軍へと再編しました。
この記事のポイントは、以下の3つです。

海賊停止令で物流を確保
海賊を大名として再編
紀伊水軍の育成と活用

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.海賊停止令はいつ出されましたか?

1588年(天正16年)に豊臣秀吉によって発令されました。刀狩令と同じ年に出されており、兵農分離と並ぶ重要な平和政策です。

Q2.村上水軍はその後どうなりましたか?

能島村上氏は毛利氏の家臣となり、江戸時代には船手組として長州藩の船を管理しました。海賊としての自立性は失われましたが、家名は存続しました。

Q3.秀長のすごさはどこにありますか?

敵対勢力を武力で潰すだけでなく、利害を調整して味方に引き入れる政治力です。特に海賊や雑賀衆のような扱いづらい集団を組織化する能力は傑出していました。

各時代の FAQ は、FAQまとめページ で一気見できます。是非ご活用ください。
[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
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