【豊臣兄弟!特集】小田原征伐|病床の秀長が懸念した家康の影

秀長の生涯を辿る ▷
秀長の生涯を辿る ▷
【豊臣兄弟!特集】小田原征伐|病床の秀長が懸念した家康の影
小田原征伐の裏で、秀長が密かに抱いていた家康への懸念とは?


病床の弟が見抜いていた、政権崩壊のシナリオ。彼を失った豊臣家の悲劇的な末路を”5分”で紐解きます。

▼ この記事でわかること

Q. 小田原征伐の裏で秀長が懸念した家康の影とは?


関東移封により徳川家康が強大な力を持ち、自身の死後に豊臣家を脅かす未来を強く恐れていました。

1590年、秀吉による天下統一の総仕上げである小田原征伐。しかし、弟・豊臣秀長は重病のため戦場におらず、大和郡山城の病床にありました。彼が最も恐れたのは、関東の覇者・北条氏滅亡後に訪れる徳川家康の台頭です。

豊臣政権の要であり調整役でもあった秀長が最後に抱いた懸念。そして、彼を失ったことによるパワーバランスの崩壊が、いかにして後の関ヶ原、そして豊臣家滅亡へと繋がっていくのか。その歴史的転換点を解説します。

病床の秀長が懸念した家康の影

小田原征伐:1590年、秀吉が北条氏を降伏させ、天下統一を完成させた最後の大規模な軍事行動。
大和郡山城:奈良県にある秀長の居城。彼が病に伏し、家康への懸念を抱いたまま没した場所。
留守居役:主力が遠征する間、本拠地を守り、後方支援や政務を代行する責任重大な役割のこと。

1590年、豊臣軍22万が関東へ攻め入った小田原征伐。これまで常に兄の副将を務めた秀長の姿が、この重要な局面にはありませんでした。

彼は前年から体調を崩し、大和郡山城の病床にあったのです。本来なら最前線に立つべき弟が、後方の京や大坂を守る留守居役とならざるを得ないほど、病状は深刻でした。




秀長不在の豊臣軍は北条氏を追い詰めますが、郡山城の彼はある不安を抱いていました。それは味方として参陣する徳川家康の動向です。

小牧・長久手の戦いで秀吉を苦しめた家康の実力を知る秀長は、自分が動けない今、兄・秀吉がこの猛獣を完全に制御できるのか、遠方から気を揉んでいたのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

秀長は重病のため、豊臣家の総仕上げである小田原征伐に参加できず、後方待機を余儀なくされました。彼は自分が側にいないことで、実力者である徳川家康と兄・秀吉の関係バランスが崩れることを、遠く離れた城から深く案じていたのです。組織における調整役の不在が招く危機といえます。


秀吉と家康が陣中で対面し、国替えについて話している様子


── 戦後処理で決定した家康の処遇を見てみましょう。

スポンサーリンク

関東移封に潜む徳川家康の脅威

関東移封:秀吉が家康に対し、先祖代々の領地から北条氏の旧領である関東への国替えを命じたこと。
徳川家康:秀吉が唯一恐れた実力者であり、秀長が政権の安定のために最も警戒し続けた人物。
二百五十万石:移封により家康が獲得した、当時の豊臣直轄領さえも上回る巨大な石高の総数。

北条氏滅亡後、秀吉は徳川家康に東海から関東への国替え、すなわち関東移封を命じました。表向きは加増ですが、実質は京から遠ざける左遷です。

しかし秀長は、この処置がかえって家康に二百五十万石という強大な力を与え、独立した勢力基盤を作らせてしまう危険性を、誰よりも鋭く感じ取っていました。




広大な関東平野は、開発次第で莫大な富を生む土地です。優秀な家臣団を持つ徳川家康なら、荒廃した江戸を再建し、豊臣家を凌ぐ力を蓄えるでしょう。

秀長がいれば家康を抑え込むことも可能ですが、自身の死期を悟っていた彼は、タガの外れた家康が将来豊臣家を脅かす未来を、明確に予見していたのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

秀吉は徳川家康を京から遠ざけようとしましたが、結果的に関東という巨大な基盤を与えてしまいました。秀長は、自分が死んだ後に誰も強大化した家康を止められなくなる事態を、この時点で誰よりも危惧していたのです。一見成功に見える人事異動が、将来の禍根となる典型例といえるでしょう。


布団に横たわる秀長と、手を握って涙を流す秀吉の様子


── そして恐れていた秀長の死が訪れます。

スポンサーリンク

秀長の死が招く豊臣政権の崩壊

大和大納言:豊臣秀長の通称。従二位・大納言という高い官位と大和国の支配者であることに由来。
千利休:秀吉の茶頭であり、秀長と共に政権内部の調整や、大名間の人間関係を取り持った重要人物。
文禄の役:秀長没後の1592年、歯止めを失った秀吉が強行した朝鮮半島への無謀な軍事侵攻。

1591年1月、大和大納言・豊臣秀長は52歳で世を去りました。政権安定の同志だった千利休も、その1ヶ月後に切腹を命じられます。

秀吉に唯一意見できた弟と、精神的支柱だった茶聖。この2人を相次いで失ったことで、豊臣政権の自浄作用は完全に停止し、崩壊へのカウントダウンが始まったのです。




ブレーキ役を失った秀吉は暴走し、秀長の死の翌年、多くの反対を押し切り朝鮮出兵である文禄の役を強行します。これで豊臣恩顧の武将は疲弊し、内部対立が激化。

一方、関東で力を蓄えた徳川家康はこの混乱を冷静に見定め、秀長が恐れた通り、天下取りへの階段を着実に上り始めることになったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

秀長の死は単なる親族の死ではなく、秀吉の暴走を止めるストッパーの消失を意味しました。これが朝鮮出兵による政権の弱体化と、徳川家康の台頭を許す決定的な要因となったのです。優秀なナンバー2を失った組織が、いかに脆く崩れ去るかを私たちに教えてくれています。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「教養として、色々学んでおきたいけど時間ない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

📚続けて読みたいオススメ記事📚

秀長をもっと深掘り!

【豊臣兄弟!特集】桶狭間の戦い|秀長参戦説について徹底解説!
秀吉の弟である秀長は、桶狭間の戦場にいたのでしょうか? 通説では不参加とされますが、実は参戦の可能性を示す状況証拠があります。兄弟の絆の原点ともいえる初陣の真実を"5分"で紐解きます。
  • STEP 1.一気読みでサクッと把握5min

  • STEP 2.この記事で理解を深める5min

  • STEP 3.拡大版noteで裏側まで10min

── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

スポンサーリンク

結:分岐点となった秀長の死

小田原征伐での秀長不在は、豊臣政権崩壊の序章でした。彼の懸念通り、関東へ移った徳川家康は強大化し、逆にブレーキを失った秀吉は朝鮮出兵で国力を消耗させます。

もし秀長が長生きしていれば、家康も徳川幕府を開けなかったかもしれない」
と言われるほど、彼の存在と死は日本の歴史を左右する大きな転換点だったのです。
この記事のポイントは、以下の3つです。

病欠が招いた政権内監視力の低下
関東移封が家康に与えた好機
弟の死で暴走開始した晩年の秀吉

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.豊臣秀長はいつ亡くなったのですか?

1591年1月に大和郡山城にて52歳で病没しました。小田原征伐の翌年のことで、豊臣政権崩壊の引き金となりました。

Q2.なぜ秀長は家康を恐れていたのですか?

小牧・長久手の戦いで秀吉軍を撃退した家康の軍事力と、関東の豊かな経済力が結びつき、制御不能になるのを恐れたからです。

Q3.秀長から学ぶべきリーダーの補佐役としての姿勢とは?

トップへ直言する勇気と、外部の実力者とも良好な関係を保つ柔軟性です。組織の潤滑油として機能するバランス感覚が学べます。

各時代の FAQ は、FAQまとめページ で一気見できます。是非ご活用ください。
[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
スポンサーリンク
偉人も、所詮は人間だ。

コメント欄 [スレッド上限:5階層]※暴言や過激な表現は伏字で

タイトルとURLをコピーしました