掲示板のコンセプト
教科書の記述に囚われず、歴史の「if」や「謎」について自由に考察する掲示板です。
定説への疑問や、独自の推測を歓迎します。みんなで歴史の空白を埋めるような議論を楽しみましょう。
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教科書の記述に囚われず、歴史の「if」や「謎」について自由に考察する掲示板です。 定説への疑問や、独自の推測を歓迎します。みんなで歴史の空白を埋めるような議論を楽しみましょう。
緩めの参加のルール
大胆な予想OK
確証がなくても「状況証拠」だけで語ってOKです。陰謀論的なのも根拠があれば👍
否定より対案を
「それは違う」と言うときは、「自分はこう思う」という仮説もセットで書き込みましょう。
バトルは紳士的に
意見の対立は大歓迎ですが、相手の人格否定は禁止です。紳士的なレスバをお願いします。
初心者歓迎
詳しい人だけでなく、素朴な疑問も大歓迎です。歴史を深く知らない人だからこその視点の意見は貴重です。





















コメント欄
こんにちは、管理人のAlex_Keiです。 今回のテーマは、歴史ミステリーの定番にして最大のタブー、「徳川家康の影武者説」です。
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」 家康といえば「忍耐の人」「温厚なタヌキおやじ」というイメージですが、実は若い頃と晩年で、性格や行動パターンが「別人レベル」で変わっていることをご存知でしょうか?
この違和感を説明するのが、「関ヶ原の戦いで本物の家康は死んでいた」という説です。
■ 疑惑のポイント
性格の激変 若い頃の家康は短気で好戦的でした。しかし、関ヶ原以降は極端に用心深く、薬の調合までする健康オタクになります。「歳をとって丸くなった」では説明がつかない変化です。
筆跡の違い 関ヶ原以前と以後で、書状の筆跡が明らかに異なると歴史学的にも指摘されています。
息子・秀忠への冷遇 ここが一番のミステリーです。家康(影武者)は、後継者の秀忠に対して親子とは思えないほどよそよそしく冷酷でした。もし影武者が「世良田二郎三郎」という元・願人坊主だったとしたら、高貴な秀忠に対して引け目があったのかもしれません。
もしこれが事実なら、江戸幕府260年を開いたのは、名もなき影武者だったことになります。 痛快なサクセスストーリーとも言えますが、歴史の根幹が覆る恐ろしい話でもあります。 皆さんは、この「入れ替わり説」信じますか?
関ヶ原前後で筆跡も性格も息子への態度も全部変わってんのに、それを「全部老化です」で押し通す歴史学者、逆にすげえわ。無理ありすぎだろ。