プロ野球のシーズンオフや、すごい新人が出てきた時によく耳にする議論があります。
大学や社会人を経てプロ入りした「オールドルーキー」が素晴らしい成績を残した時、こんな声が聞こえてきます。
「ああ、もったいない。高卒ですぐプロに入っていれば、もっとすごい通算成績になっただろうに」
つまり、「4年遅く入ったから、その分の数字が損されている」という理屈ですね。
でも、私はこの意見を聞くたびに、少し首をかしげてしまいます。
「いやいや、その4年間があったからこそ、今があるんじゃないの?」と。
「見えない死者」の存在
18歳の体と、22歳・24歳の体は全くの別物です。
骨格も筋肉も完成していない段階で、プロの一軍という過酷な環境に放り込まれていたらどうなっていたか。もしかすると、体が悲鳴を上げ、肩や肘を壊し、私たちが名前を知る前に球界を去っていたかもしれません。
大学や社会人でじっくり体を作り、適切な登板間隔で経験を積んだからこそ、プロ入り後に「即戦力」として爆発できた。
そう考えるほうが自然ではないでしょうか。
「高卒ならもっと成績が良かったはず」と嘆く人は、「生き残った成功者」だけを見ています。
その背後には、高卒でプロの壁に跳ね返され、無理をして潰れていった無数の選手たちがいる。その存在が計算に入っていないのです。
【生存バイアス】
生き残ったデータだけを見て判断してしまい、脱落したデータ(死者・敗者)を無視してしまう思い込みのこと。
統計学や認知科学で使われる用語。
これ、私たちのような歴史好きにとっても、非常に重要なキーワードなんです。
縄文時代の「落とし穴」
歴史を学ぶ時、私たちはどうしても「目の前にあるモノ」だけで当時の生活をイメージしてしまいます。
例えば、博物館で縄文時代の展示を見たとしましょう。
並んでいるのは石器、土器、そして動物の骨や貝殻です。
これらを見て、「縄文人は石と土に囲まれて暮らしていたんだな」と思いますよね。
でも、ここにも強烈な生存バイアスがかかっています。
日本の土壌は酸性が強く、有機物を分解してしまいます。
- 木で作った道具
- 植物の繊維で編んだカゴや服
- 動物の皮
これらは長い時の中で腐って土に還ってしまいます。
「石や焼き物が多かった」のではなく、「石や焼き物しか残らなかった」だけなのです。
本当の縄文人の生活は、私たちが想像するよりもずっとカラフルで、木や森の恵みをふんだんに使った、豊かなものだったかもしれません。
でも、それらは「生存」できなかったため、博物館のガラスケースには並ばないのです。
歴史書は「勝者の生存報告」
モノだけではありません。「記録」もそうです。
平安時代の貴族の日記を読むと、当時の宮廷の様子が手に取るようにわかります。でも、そこに書かれているのは、ほんの一握りの特権階級の世界だけ。
人口の9割以上を占めていたはずの農民や庶民が、何を考え、何を食べていたのか。
彼らの「声」はほとんど残っていません。文字を持たず、あるいは記録を残す手段を持たなかった彼らの日常は、歴史の闇に沈黙しています。
また、歴史書そのものも「生き残った政権(勝者)」によって編纂されます。
負けた側の正義や、彼らなりの善政は、勝者にとって都合が悪ければ消されるか、悪く書き換えられてしまう。
私たちが教科書で読んでいる歴史は、ある意味で「生存者たちによる、生存者たちのための記録」という側面があることを忘れてはいけません。
「無いもの」を見る想像力
野球の話に戻りましょう。
「遅いデビューだったからこそ、壊れずに大成できたのかもしれない」
こう考える視点は、そのまま歴史の勉強にも通じます。
「博物館に残っているモノだけが全てではない」
「歴史書に書かれていることだけが真実ではない」
そう疑ってかかること。
腐って消えてしまった木の文化や、声を残せずに死んでいった名もなき人々のざわめきに、想像力を巡らせること。
目の前のデータ(生存者)だけを盲信するのではなく、その背後に広がる「消えてしまった膨大な事実」に思いを馳せることこそが、歴史をより深く、リアルに感じるための鍵なのかもしれません。
数字や文字として残らなかった部分にこそ、人間臭いドラマが隠されている。
そう考えると、歴史という学問がもっと面白くなってきませんか?





















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