ギリギリまで切り詰めたシステムは、脆い
「無駄をなくそう」。これはいつの時代も、誰もが反対できない正義のスローガンです。特に現代は、AIによる業務効率化が進み、在庫は最小限に、人員配置はギリギリに、スケジュールは分刻みに最適化される傾向にあります。
いわゆる「ジャスト・イン・タイム」の世界観です。しかし、システム工学や生態学の視点、そして歴史の教訓を合わせると、ひとつの真理が浮かび上がってきます。
それは、「無駄(余白)のないシステムは、平時には最強だが、有事にはもろくも崩れ去る」という事実です。
一見非効率な「村の寄り合い」と「祭り」
かつての日本の農村社会には、現代人の感覚からすれば「狂気」とも思えるほど多くの手間と時間を要する行事がありました。
頻繁に行われる「寄り合い(集会)」、準備に何ヶ月もかける「祭り」、共同での「普請(土木作業)」。
これらを経済合理性だけで見れば、農作業の時間を奪うだけの非効率な慣習に見えます。「そんな時間があるなら、1時間でも長く畑を耕したほうが生産性が上がる」と、AIなら間違いなく指摘するでしょう。
実際、江戸時代の農書などを見ても、いかに効率よく働くかが説かれています。しかし、それでも村人たちは、この「膨大な無駄時間」を共有することをやめませんでした。なぜでしょうか。
それは、この「非効率な余白」こそが、飢饉や災害という予測不能な危機に対する、最強のセーフティネットだったからです。
「遊び」があるから衝撃を吸収できる
自動車のハンドルに「遊び」が必要なように、社会というシステムにも「遊び」が必要です。
祭りの準備を通して、村人たちは「誰が得意で、誰がリーダーシップを取れるか」「誰と誰が仲が悪くて、どう調整すればいいか」を無意識のうちにシミュレーションし、把握します。酒を酌み交わして無駄話をすることで、平時からの人間関係の風通しを良くしておきます。
これがあるからこそ、いざ台風で川が氾濫したとき、あるいは大火事が起きたとき、マニュアルがなくても阿吽の呼吸で連携し、迅速に助け合うことができたのです。
もし、AIの指示通りにこれらを廃止し、個々人が効率的に自分の畑だけを耕していたらどうなるでしょう。
災害時、隣人がどのような状況かもわからず、誰が指示を出すかも決まらず、村全体が共倒れになっていた可能性が高いのです。平時の効率性を追求しすぎた結果、有事の生存率(レジリエンス)を下げてしまう。これを「最適化の罠」と呼びます。
参勤交代という「巨大な無駄」の副産物
視点を変えて、江戸幕府の「参勤交代」も見てみましょう。大名に行列を組ませて江戸と領地を往復させるこの制度は、各藩にとっては財政を圧迫する「究極の無駄遣い」でした。
しかし、ご存知の通り、この制度には意外な副作用がありました。数千人の人間が定期的に移動することで、五街道が整備され、宿場町が発展し、貨幣経済が全国に浸透したのです。さらに、江戸の文化が地方へ、地方の情報が江戸へと運ばれることで、日本という国に「文化的な一体感」が生まれました。
AIの分析で「参勤交代はコストの無駄なので廃止しましょう」と早期に判断していたら、明治維新の際に日本がこれほど迅速に国民国家としてまとまることはできなかったかもしれません。
このように、「Aを行うと、一見関係ないCという場所で、数十年後にDという良い効果が出る」といった、風が吹けば桶屋が儲かる的な複雑な因果関係を、AIは予測しきれません。AIは「直接的な効果」を見るのは得意ですが、「回り回って現れる副次的な効果」は見落としがちなのです。
AI時代に必要な「意図的な無駄」
現代社会において、私たちはつい「コスパ(コストパフォーマンス)」や「タイパ(タイムパフォーマンス)」を優先してしまいがちです。映画を倍速で見たり、結論だけをまとめた要約サイトを読んだり。
しかし、そうやって切り詰めた「余白」の中にこそ、実は新しいアイデアの種や、心の回復機能、あるいは人間関係の潤滑油が含まれています。
「無駄だからやめる」と切り捨てる前に、少し立ち止まってみてください。その無駄話が、チームの信頼を作っていないか。その遠回りが、予期せぬ発見をもたらしていないか。
AIが「効率」を叫ぶ時代だからこそ、人間はあえて「意図的な無駄」や「非効率な余白」を守り抜くことで、社会や自分自身のしなやかな強さを維持する必要があるのです。
歴史上の長く続いたシステムは、例外なくこの「余白」を内部に持っていました。私たちも、効率化の波に飲み込まれることなく、自分たちの手で「あそび」の部分をデザインしていく知恵が求められています。





















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