豊臣秀吉の朝鮮出兵と後継者争い!家康が天下狙う|5分de探究#067

安土桃山時代
豊臣秀吉の朝鮮出兵と後継者争い!家康が天下狙う|5分de探究#067
なぜ家康だけが勝ち残り、秀吉は晩節を汚してしまったのでしょうか?


我慢強さだけではない家康の勝算と、溺愛が招いた秀吉の暴走。二人の明暗を分けた決断を知れば、歴史の転換点が鮮やかに見えてきます。

▼ この記事でわかること

Q.豊臣秀吉の朝鮮出兵と後継者争いは何を生んだのか?


朝鮮出兵による大名の疲弊と秀次粛清での家臣団分裂が、力を温存した徳川家康の台頭と政権崩壊を招いたのです。

日本史の巨人、徳川家康。彼は人質時代を経て秀吉の下で関東へ移封されるも、そこで着々と力を蓄えました。一方、晩年の秀吉は後継者問題で甥の豊臣秀次を粛清し、幼い秀頼を溺愛。

さらに「唐入り」と称して朝鮮出兵を強行します。これは単なる野心か、諸大名の力を削ぐ計算だったのか。家康の忍耐と秀吉の暴走という明暗の対比こそが、その後の関ヶ原、そして徳川の天下へと繋がる決定的な転換点となったのです。

徳川家康の天下取りと秀吉の「誤算」

人質:忠誠を誓う証として他家に身柄を拘束され、同盟の破棄や裏切りを防ぐ生きた保証人
小牧・長久手の戦い:信長死後の主導権争いで家康が秀吉軍を野戦で破り、その武名を天下に轟かせた激戦
関東移封:天下人となった秀吉が、勢力を増す家康を京から遠ざけるために命じた広大な領地の国替

日本史の巨人、徳川家康。しかし彼はいきなり頂点に立ったわけではありません。幼少期は「人質」として織田や今川の間をたらい回しにされ、長く忍耐の日々を過ごしました。信長の死後は小牧・長久手の戦いで秀吉軍を局地的に破るものの、圧倒的な国力の差を悟り、賢明にも秀吉の軍門に下るという苦渋の道を選んだのです。


天下人となった秀吉は、実力者である家康を警戒し続けます。先祖代々の領地を取り上げ、当時は田舎だった江戸を含む8カ国への「関東移封」を命じました。一見すると領地加増ですが、これは中央からの追放です。しかし家康はこの冷遇をあえて受け入れ、江戸を拠点に東日本で着実に力を蓄え、次の機会を虎視眈々と狙ったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

家康は秀吉に屈服したように見せかけながら、左遷ともいえる「関東移封」を、「独自の勢力基盤を作るチャンス」へと変えました。目先のプライドよりも将来の実利を取り、秀吉の寿命が尽きる時を静かに待ち続けるという、恐るべき忍耐力を発揮して虎視眈々と次の天下を狙ったのです。


若き日の徳川家康の肖像画


── では、家康が待っていた「好機」はどのように訪れたのでしょうか。

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政権崩壊を招いた粛清と「暴挙」

淀殿:秀吉の側室となって秀頼を産み、権勢を振るった信長の姪であり浅井長政の娘の茶々
豊臣秀次:秀吉の甥として関白を継ぐも、秀頼誕生後に謀反の疑いをかけられ切腹させられた悲劇
殺生関白:辻斬りなどの残忍な行いを繰り返したとされる秀次に対し、人々が恐れおののいたあだ名

秀吉の晩年を狂わせたのは、待望の跡取りの誕生でした。側室の淀殿に秀頼が生まれると、それまで後継者とされていた甥の豊臣秀次の立場が危うくなります。秀吉は、成人して実務能力もあった豊臣秀次を謀反の疑いで処刑。我が子である秀頼への権力移譲を確実にするため、頼れる親族さえも排除するという暴挙に出ました。


宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、豊臣秀次は罪なき人々を試し斬りするなど殺生関白と呼ばれる残虐な一面があったともされます。しかし真偽はどうあれ、成人した有力な後継者を自ら消し去り、幼子だけを残したことは致命的でした。秀吉の死後、豊臣家を守れる大人が不在という不安定な状況を招いてしまったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

秀吉は愛する実子である秀頼の将来を案じるあまり、政権のセーフティネットであった有能な豊臣秀次を無慈悲に排除してしまいました。これは自らの死後に発生するであろう激しい権力闘争において、豊臣家を守るはずの防波堤を、焦りから自らの手で破壊してしまったことと同義だったのです。

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朝鮮出兵の様子を描いた屏風絵の一部


── では、さらに政権を揺るがした対外政策を見てみましょう。

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大陸進出の野望と疲弊する「公共事業」

文禄・慶長の役:天下統一を果たした秀吉が、その先の明国の征服までもを目論み朝鮮半島へ侵攻した戦争
唐入り:朝鮮半島を通り抜けて当時の中国大陸王朝である明を武力で征服しようとした壮大な構想
大名統制:外征で諸大名の財力と兵力を消耗させ、政権への反逆を物理的に防ごうとする政治策

国内統一後、秀吉は文禄・慶長の役を起こし、朝鮮半島へ攻め込みます。彼の視線はその先の中国、つまり「唐入り」に向いていました。妻への手紙や宣教師への言葉からは、歴史に名を残したいという強烈なエゴが見え隠れします。しかし一見無謀なこの戦争には、国内の平和を保つための冷徹な計算もあったと言われています。


戦国時代が終わり、武士たちに分け与える領土が国内になくなった今、秀吉は彼らのエネルギーを外に向ける必要がありました。外征という巨大な公共事業は、有力な外様大名の財力と兵力を消耗させる大名統制の手段でもあったのです。彼らを海外で戦わせることで、秀吉自身への反乱を未然に防ごうとしたのかもしれません。

🔍 つまりどういうこと?🔍

朝鮮出兵は、秀吉の個人的な名誉欲と、武士階級に「新しい仕事と領土」を与える必要性が生んだ大きな悲劇でした。しかし結果としてこの戦争は政権の寿命を縮め、力を温存していた家康にとって有利な状況を作り出し、政権交代を早める皮肉な結果を招くことになってしまったのです。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「歴史は好きだけど、文字を読む時間はあまりない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

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徳川家康vs上杉景勝!関ヶ原の引き金「直江状」|5分de探究#068
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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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まとめ:家康の勝因と秀吉の自滅

家康が天下を取れたのは、秀吉に従順な姿勢を見せつつ、関東で力を蓄える貴重な時間を稼いだからです。対照的に秀吉は、後継者選びの失敗と朝鮮出兵という暴挙により、自ら政権の寿命を縮めてしまいました。「待つ」ことができた家康と、焦りと野心で自滅した秀吉。この対比が歴史を大きく動かしたのです。
この記事のポイントは、以下の3つです。

家康は左遷を好機に変えた忍耐
秀吉は実子への愛で招いた崩壊
朝鮮出兵は諸大名を削ぐ消耗戦

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.なぜ家康は、京から遠い江戸への移動を受け入れたのですか?

秀吉には逆らえないという現実的判断と、未開拓な関東平野に独自の強力な基盤を築けるという長期的な勝算があったからです。

Q2.秀吉の死後、豊臣家を守るはずだった家臣はどうなりましたか?

朝鮮出兵の負担などで分裂し、家康派と反家康派に対立しました。これが後の関ヶ原の戦いへと直結していきます。

Q3.秀吉の朝鮮出兵は、現代から見てどう評価すべきですか?

国際的には侵略行為ですが、国内的には行き場のない武士のエネルギーを発散させる装置として機能した側面も否定できません。

[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
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