関ヶ原から大坂の陣へ!家康が豊臣家を滅ぼした|5分de探究#069

安土桃山時代
関ヶ原から大坂の陣へ!家康が豊臣家を滅ぼした|5分de探究#069
家康はなぜ関ヶ原で勝ち豊臣家を滅ぼせたのでしょうか?


裏切りを誘う心理戦や方広寺の鐘を口実にした老獪な政治手腕など、乱世を終わらせた完全勝利の裏側と天下統一の総仕上げを5分で紐解きます。

▼ この記事でわかること

Q. 関ヶ原から大坂の陣へ至る家康の天下統一戦略とは?


関ヶ原での裏切り工作や戦後処理で力を削ぎ、方広寺鐘銘事件を口実に大坂の陣で滅ぼしました。

1600年の関ヶ原の戦い徳川家康石田三成率いる西軍に対し、小早川秀秋らの裏切りを誘発して勝利しました。戦後、家康は巧みな領地配分と将軍職就任で支配を固めますが、大坂の豊臣秀頼は従いません。

そこで方広寺鐘銘事件を口実に1614年の大坂の陣を開戦。冬・夏の陣を経て豊臣家を滅ぼし、名実ともに天下統一を完遂しました。家康がいかにして乱世を終わらせたか、その老獪な政治手腕と最終決戦の全貌に迫ります。

📚お読みになる前に📚

天下を決定づけた関ヶ原の「裏切り」

石田三成:豊臣家への忠義から挙兵し、家康打倒を目指して西軍を組織するも関ヶ原で敗れ処刑された官僚
吉川広家:毛利一族でありながら家康に通じ、南宮山の毛利本隊を動かさず西軍の敗北を招いた武将
小早川秀秋:松尾山に布陣し、最終的に家康側に寝返って大谷吉継らを壊滅させ西軍崩壊の決定打を放った人物

1600年、徳川家康絶体絶命の危機に瀕していました。上杉討伐のために東へ向かった隙を突き、石田三成が西日本で反徳川の兵を挙げたのです。家康は東の上杉を伊達政宗に任せ、取って返して関ヶ原での決戦に臨みます。しかし、数で勝る西軍に対し、正面からぶつかるだけでは勝機が見えません。そこで家康が駆使したのは、戦場外での緻密な政治工作でした。


家康の勝因は、敵内部の切り崩しにありました。まず吉川広家を通じて毛利本隊を封じます。正午過ぎ、小早川秀秋が徳川方へ寝返ると戦況は一変しました。高地からの猛攻で西軍は壊滅し、石田三成は捕らえられ処刑されます。わずか一日で決着したこの戦いは、武力だけでなく、人心掌握術を含めた家康の総合力が勝利を手繰り寄せたのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

数の上では不利だった家康ですが、緻密な事前の裏工作と戦場での冷徹な決断力が功を奏しました。特に、動揺する小早川秀秋への働きかけによる「裏切り」が決定打となり、拮抗していた勝負を徳川の圧勝へと変え、天下の形勢を一気に徳川家のものへと決定づけたのです。


関ヶ原の合戦図屏風の一部


── では、勝利した家康がどのように権力を固めたのかを見ていきましょう。

スポンサーリンク

勝利を確定させる家康の「戦後処理」

毛利輝元:西軍総大将として大坂城にいたが、戦後に領国を八カ国から防長二カ国へと大幅に減封された大名
島津義弘:関ヶ原での敵中突破で知られ、戦後は遠隔地の利と武力を背景に本領安堵を勝ち取った薩摩の猛将
征夷大将軍:1603年に家康が任命された、武家の棟梁として日本全土を統治する正当性を保証する官職

関ヶ原の勝利後、家康は慎重に盤石な体制を築き始めます。敗れた敵をすべて殲滅せず、毛利輝元のように領地を削減して生かすなど、現実的な「取引」を行いました。一方で島津義弘のような強敵には本領を安堵するなど、相手の力に応じ硬軟自在に対応します。無理な戦争を避け、確実に利益を確定させる道を選んだのです。


1603年、家康は征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きます。これは徳川家が武家の頂点に立ったことを天下に知らしめる重要な儀式でした。わずか二年で秀忠に将軍職を譲ったのも、徳川の世襲支配を既成事実化するためです。こうして家康は、軍事的な勝者から、法と権威に基づく正当な統治者へとその立場を転換させていきました。

🔍 つまりどういうこと?🔍

家康は戦争を続けるリスクを避け、敵の力を削ぐ外交交渉と、征夷大将軍という「権威の獲得」を優先しました。武力による覇者から法的な支配者へと脱皮することで誰も逆らえない体制を作り上げ、武力だけに頼らない長期安定政権の強固な土台が完成したのです。

💡 情報が混み合っていませんか?細かい時系列は、年号整理ページ にまとめてあります。是非ご活用ください。


江戸城にて征夷大将軍として諸大名の拝謁を受ける家康


── では、最後の敵である豊臣家をどう始末したのかを見ていきましょう。

スポンサーリンク

豊臣家を滅亡へと追いやる「謀略」

淀殿:秀吉の側室であり秀頼の生母として豊臣家の実権を握り、最後まで徳川への従属を拒絶した女性
方広寺鐘銘事件:国家安康の銘文が家康の名を分断し呪っていると因縁をつけ、開戦の口実とされた事件
大坂の陣:1614年から翌年にかけ、徳川家康が豊臣秀頼らを攻め滅ぼし戦国時代に終止符を打った戦い

しかし、大坂城には依然として豊臣秀頼と母の淀殿が健在でした。成人した秀頼は聡明で、家康にとって無視できない脅威となります。徳川への臣従を拒む豊臣家に対し、家康は方広寺鐘銘事件という些細な言いがかりをつけて挑発します。「国家安康」の銘文を呪いだと決めつけ、平和的な解決の道を自ら閉ざし武力による最終決着へと誘導したのです。


1614年、ついに大坂の陣が勃発します。冬の陣での和睦と堀の埋め立てを経て、翌年の夏の陣で大坂城は落城しました。秀頼と淀殿は自害し、豊臣家は滅亡します。関ヶ原から15年、73歳となった家康は、最後の懸念材料を完全に取り除きました。これこそが、戦国乱世を終わらせるための、冷徹かつ完璧な「総仕上げ」だったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

徳川の支配を盤石にするため、家康は成長した秀頼を危険視しました。鐘の銘文を口実に無理やり戦争を仕掛け、二度にわたる大坂の陣で豊臣家を徹底的に根絶やしにすることで、情けを捨てて最後の火種を完全に消し去り、争いのない平和な世と真の天下統一を成し遂げたのです。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「歴史は好きだけど、文字を読む時間はあまりない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

📚続けて読みたい 5分de探究記事📚

次回のお話はこちら!

鎖国とキリスト教禁止!長崎貿易を独占した幕府|5分de探究#071
なぜ幕府は海外への扉を閉ざして鎖国を選んだのでしょうか?実は単なる宗教弾圧ではありません。貿易利益を独占して徳川の支配を盤石にするための、極めて計算高い政治戦略の全貌を"5分"で紐解きます。
  • STEP 1.一気読みでサクッと把握5min

  • STEP 2.この記事で理解を深める5min

  • STEP 3.拡大版noteで裏側まで10min

── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

スポンサーリンク

まとめ:家康が描いた天下統一の「総仕上げ」

関ヶ原の戦いでの劇的な勝利から、大坂の陣での豊臣家滅亡まで、家康の天下統一プロセスを追ってきました。それは単なる武力の勝利ではなく、裏切りを誘う調略、将軍権威の利用、そして好機を逃さない冷徹な決断の連続でした。この老獪な政治力と徹底したリスク管理こそが、長きにわたる乱世を終わらせる鍵だったのです。
この記事のポイントは、以下の3つです。

小早川らの裏切りを誘発した家康の調略
将軍職と領地削減を絡めた巧みな戦後処理
鐘銘事件を口実に豊臣を滅ぼした大坂の陣

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.関ヶ原の戦いはいつ、どこで行われましたか?

1600年10月21日、現在の岐阜県関ケ原町で起きました。日本列島のほぼ中央に位置する交通の要衝で、東西の軍が激突しました。

Q2.なぜ小早川秀秋は西軍を裏切ったのですか?

朝鮮出兵時の指揮を三成に批判された恨みがあったとされます。また、家康からの事前の誘いや、戦場での威嚇射撃が決断を促しました。

Q3.家康はなぜ孫娘の千姫を秀頼に嫁がせたのですか?

当初は豊臣家を親戚として徳川体制に取り込む懐柔策でした。しかし秀頼が屈服しなかったため、最終的に千姫は救出され、両家は決裂しました。

[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
── 最後まで読んでくれたあなたへ。「5分の枠」には収まりきらなかった、もっとディープな歴史の裏側を覗いてみませんか?
📚このテーマのロング版記事📚


※鋭意製作中です。

👇noteではこんな話をしてます(目次)👇

※鋭意製作中。今しばらくお待ちください


スポンサーリンク
── もっと深く知りたい人向けに本のご紹介。

🖋 この記事はどんな本を参考に?🖋

本の表紙

当ブログと相性が抜群!図表が大量に掲載され、
学び直しに最適な一冊。
ご購入はこちらから

「高くてかさばる」歴史専門書の悩みにKindle Unlimitedなら、手が出しにくい
専門書も、スマホで手軽に読み放題。

コメント欄

タイトルとURLをコピーしました