▼ この記事でわかること
1864年、下関と薩摩で勃発した西洋列強との武力衝突は、日本に「攘夷」の物理的な不可能性を決定づけました。下関戦争での長州の敗北、生麦事件を発端とする薩英戦争での薩摩の苦戦は、圧倒的な軍事力差を痛感させる結果となります。
さらに長州は禁門の変で敗れ、幕府軍による第一次長州征伐で壊滅的打撃を受けました。しかし、伊藤博文らの英国留学や高杉晋作の潜伏など、攘夷から倒幕へ、そして開国へと向かう歴史的転換点が、この激動の中に隠されていたのです。
薩英と下関!攘夷決行の果てにある「現実」
「外国人を追い払え」という威勢の良い掛け声は、圧倒的な火力の前に沈黙しました。下関戦争で長州藩の砲台は徹底的に破壊され、上陸したフランス軍に記念撮影までされる始末でした。これは尊王攘夷派が夢見た勝利ではなく、西洋との真っ向勝負が壊滅的な敗北しか生まないことを証明する、あまりに過酷で残酷な現実だったのです。
一方、尊王攘夷の急先鋒ではなかった薩摩藩も、苦い経験を強いられます。藩士が英国人を斬った生麦事件の賠償を巡って英国艦隊と衝突し、薩英戦争が勃発しました。鹿児島市街の半分が焼失する甚大な被害を受け、彼らは身をもって「攘夷」の物理的な不可能性を学び、単なる精神論では国を守れないことを痛感させられたのです。
🔍 つまりどういうこと?🔍
長州も薩摩も、実際に西洋の軍隊と戦ってみて初めて、自分たちの装備がいかに旧式で通用しないかを思い知らされました。この完敗体験こそが、盲目的な外国人排斥論から脱却し、西洋技術を積極的に導入するための冷静な戦力分析へと意識が大きく変わる重要なきっかけとなったのです。
── では、この混乱の中で国内政治はどう動いたのか見てみましょう。
京都での敗北!禁門の変と長州藩の「凋落」
対外戦争での敗北に続き、長州藩は国内でも窮地に立たされます。天皇を奪還して政局を覆そうと京都へ攻め上った禁門の変は、松平容保率いる会津藩や薩摩藩の猛反撃により失敗に終わりました。御所に向けて発砲したことで長州は「朝敵」とみなされ、京都市街の広範囲を焼き尽くす大火災を引き起こしてしまう結果となったのです。
幕府はこの機を逃さず、第一次長州征伐の号令をかけました。西日本の諸藩を動員した圧倒的な兵力を前に、長州藩政府は戦わずして降伏を選択せざるを得ませんでした。責任者の切腹や処刑が行われ、尊王攘夷運動は完全に鎮圧されたかに見え、過激な志士たちは一掃され、藩内は幕府に従順な保守派が主導権を握ることになります。
🔍 つまりどういうこと?🔍
無謀なクーデター計画は失敗し、長州藩は内外から徹底的に叩きのめされました。これにより、感情的な「尊王攘夷」を叫ぶだけの勢力は壊滅し、運動は一時的に消滅したように見えましたが、それは過激な思想が淘汰され、次なる段階へと進化するための不可欠な準備期間でもあったのです。
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── では、彼らがどのように復活の種をまいたのか確認しましょう。
復活への種まき!長州五傑と高杉の「決断」
敗北は終わりではありませんでした。かつて吉田松陰に学んだ若者たちは、敵である西洋から学ぶ道を選びます。伊藤博文や井上馨ら長州ファイブは、死罪覚悟で英国へ密航しました。ロンドンで目の当たりにした圧倒的な技術力と文明の差を日本に持ち帰り、「攘夷」ではなく「開国・富国強兵」こそが生き残る道だと悟ったのです。
一方、国内に残った高杉晋作も諦めてはいませんでした。幕府に屈服した藩の姿勢に納得せず、仲間と共に山間部へ潜伏します。彼は後にわずかな兵を率いて決起し、保守派から再び藩の実権を奪取することになります。この潜伏期間こそが、来るべき倒幕戦争へ向けた、静かですが確実なエネルギーの充填期間となっていたのです。
🔍 つまりどういうこと?🔍
全ての攘夷派が死に絶えたわけではありません。一部の生存者は「勝てないなら学べ」と柔軟に方針転換し、あるいは地下に潜って再起を誓いました。この現実主義への転換と、あきらめない不屈の精神こそが、後の明治維新という大事業を成功させるための重要な鍵となります。
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── 最後に、この記事のまとめとFAQでおさらいしましょう。
まとめ:攘夷の失敗から学ぶ生存への「転換」
1864年は、観念的な攘夷論が物理的な敗北によって否定された年でした。しかし、この手痛い失敗があったからこそ、薩摩も長州も西洋技術の受容という現実的な路線へ舵を切ることができたのです。失敗を認めて方針を修正する柔軟さこそが、次なる時代を切り拓く力となりました。
この記事のポイントは、以下の3つです。
‣薩英・下関戦争による攘夷の物理的な限界
‣禁門の変と長州征伐による急進派の挫折
‣長州五傑に見る西洋技術受容への転換
ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。
Q1.攘夷(外国排斥)はいつ頃から倒幕へ変わったのですか?
1863年の薩英戦争、64年の下関戦争での敗北が大きな契機です。西洋の軍事力を痛感し、幕府を倒して新しい国を作る方針へ徐々にシフトしました。
Q2.薩摩藩と長州藩の立場の違いは何でしたか?
長州は思想的な「尊王攘夷」を掲げましたが、薩摩はより現実的で、関ヶ原以来の反徳川感情を背景に、公武合体などを模索しつつ実力を蓄えました。
Q3.なぜ長州ファイブは敵国であるイギリスへ留学したのですか?
「敵を知り、その技術を取り入れることこそが真の攘夷(独立維持)につながる」と考えたからです。彼らの柔軟性が、後の明治政府を支えました。
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます
🖋この記事を書いた人🖋
Alex Kei(学び直し歴史ライター)
早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。🖋 この記事はどんな本を参考に?🖋

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