摂関政治はなぜ成立?藤原氏の逆襲と薬子の変|5分de探究#018

平安時代
摂関政治はなぜ成立?藤原氏の逆襲と薬子の変|5分de探究#018
【この記事は5分ほどで読めます】
「平安貴族は優雅」なんて嘘だと思いませんか?
実はその裏側では、ドロドロの蹴落とし合いが起きていました。藤原氏がトップに上り詰めた「黒い手口」を知れば、歴史を見る目がガラリと変わります。

平安初期、巨大化した藤原氏四家に分裂し権力争いが激化しました。嵯峨天皇薬子の変を鎮めて皇室権力を一時的に強化し、藤原氏を中枢から遠ざけます。しかし嵯峨の死後、藤原北家良房承和の変を利用してライバルを一掃。

良房は幼い清和天皇を即位させ、史上初の人臣摂政となり、続く基経関白の地位を創設しました。こうして外戚関係を利用した摂関政治が確立され、天皇は政治の実権を離れて文化的役割に専念する時代へと移行したのです。

▼ この記事でわかること

  • 嵯峨天皇が仕掛けた逆襲の真相
  • 教科書にはない承和の変の裏話
  • 藤原氏が作った最強システムの正体

皇室の意地と薬子の変という「火種」

藤原四家:藤原不比等の四人の息子が興した、南家・北家・式家・京家という四つの分家の総称。
薬子の変:平城上皇が復位を狙って起こしたクーデター未遂事件で、藤原薬子が処分された政変。
嵯峨天皇:薬子の変を鎮圧し実権を掌握。藤原氏を遠ざけ、皇室主導の政治体制を築き上げた天皇。

奈良時代からの繁栄を誇る藤原氏は、巨大化ゆえに一族内で激しい争いを生みました。彼らは藤原四家に分かれ権力を競いましたが、この混乱に乗じて皇室側も巻き返しを図ります。特に平城上皇は退位後に復権を狙い、奈良への遷都を強引に画策して、愛人の藤原薬子とともに薬子の変という反乱を引き起こしたのです。


しかし、このクーデターは弟の嵯峨天皇によって未然に防がれました。勝利した嵯峨天皇は、事件を口実に藤原氏の影響力を徹底的に削ぎ落とします。彼は家柄にとらわれず有能な人材を積極的に登用し、皇室独自の財源を確保することで、かつての天武・持統天皇の時代のような「強い皇室」の一時的な復活に成功したのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

内部対立で弱体化した藤原氏の隙を突き、嵯峨天皇はクーデター未遂を機に政敵を一掃しました。こうして皇室主導の政治を取り戻し、一時は藤原氏を中枢から完全に排除することに成功しました。これは、長きにわたる藤原氏の支配に対する、皇室側の強烈なカウンターパンチだったのです。


強大な権力を持った嵯峨天皇と、その影で機会を窺う藤原良房の対比イメージ


── では、なぜここから藤原氏が復活できたのかを見ていきましょう。

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藤原北家の復活と承和の変の「真実」

藤原良房:嵯峨天皇に接近して信頼を得た、藤原北家の当主であり最初の「人臣摂政」となった人物。
承和の変:皇太子の謀反計画とされた事件だが、実際は藤原氏による他氏排斥の陰謀とされる政変。
橘嘉智子:嵯峨天皇の皇后。良房と協力関係にあり、承和の変において重要な役割を果たした女性。

権力を握っていた嵯峨天皇が亡くなると、わずか一週間で事態は急変します。藤原良房と、嵯峨の皇后であった橘嘉智子が手を組み、驚くべき行動に出ました。彼らは「皇太子である恒貞親王が謀反を企てている」という情報を流布し、その計画を未然に防ぐという名目で、承和の変という粛清を実行したのです。


この事件には多くの謎が残されています。捕らえられたのは良房の政敵ばかりであり、事実上の「自作自演」であった可能性が極めて高いのです。結果として恒貞親王は廃太子となり、良房の甥にあたる道康親王、のちの文徳天皇が皇太子となりました。これは藤原北家が権力の中枢へ返り咲く、まさに決定打となったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

巨大な壁だった嵯峨天皇が亡くなるやいなや、良房は即座に陰謀を巡らせました。ライバルたちを「反逆者」に仕立て上げて一掃し、自分の血縁者を次期天皇の座に据えることで、失いかけていた権力を一気に取り戻したのです。これは、藤原氏による計算され尽くした冷徹なクーデターでした。

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玉座に座る幼い天皇と、その後ろで指図をする藤原良房のシルエット


── では、この権力をどう制度化したのか確認しましょう。

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幼き帝の即位と摂関政治の「完成」

清和天皇:良房の意向によりわずか9歳で即位させられ、日本史上初の「人臣摂政」が置かれた天皇。
摂政:幼少の天皇に代わって政務を行う役職。本来は皇族が就くが、良房がその慣例を破った。
関白:成人した天皇を補佐し政務を統括する役職。良房の養子である藤原基経が創始した職。

良房の野望は留まるところを知りません。彼は孫にあたる清和天皇をわずか9歳で即位させました。当然、幼い子供に高度な政治判断など不可能です。そこで良房は、これまで皇族しか就けなかった「摂政」の地位に、臣下の身分でありながら初めて就任するという、前代未聞のルール変更を大胆にも強行したのです。


この権力継承の流れは良房の養子、基経にも引き継がれます。基経は天皇が成人した後も権力を維持するため、「関白」という新しいポストを作り出しました。こうして天皇は政治の実権を奪われ、儀式や文化的な象徴としての役割に限定されていくことになります。これが、平安時代を象徴する摂関政治完成形なのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

自分の血を引く幼い子供を天皇にし、その「おじいちゃん」として政治を代行するシステムを作り上げました。さらに天皇が大人になっても権力を手放さない「関白」という仕組みを追加し、藤原北家の独裁体制を盤石なものにしたのです。これにより、天皇は政治から切り離された存在となっていきました。


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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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まとめ:平安の権力争いと藤原氏の「勝因」

本稿では、平安時代初期の天皇家と藤原氏のシーソーゲームを見てきました。嵯峨天皇による皇権回復は一時的な成功を収めましたが、藤原良房らの巧みな政治工作と制度の改変により、最終的には摂関政治という藤原一強の時代が到来しました。権力とは、持つ者の能力だけでなく、継承の仕組みを握った者が勝つという歴史の教訓です。
この記事のポイントは、以下の3つです。

嵯峨天皇による藤原氏の排斥
承和の変での良房の政敵一掃
人臣初の摂政就任による制度化

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.なぜ藤原氏はここまで権力を回復できたのですか?

皇室との婚姻関係(外戚)を利用し、天皇が幼い時期や政治的空白を狙って、制度そのものを自分たちに有利に変えたからです。

Q2.摂政関白の一番の違いは何ですか?

補佐する天皇の年齢が違います。摂政「幼少の天皇」に代わって政治を行い、関白「成人の天皇」を補佐して政治を統括します。

Q3.天皇に政治的実権はなくなったのですか?

政治的な決定権は弱まりましたが、宗教的・文化的な権威は保たれました。その結果、この時代に日本独自の国風文化が花開くことになります。

[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
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