清盛が犯したたった一つのミスとは。この記事を読めば、組織のトップが陥りやすい判断ミスの怖さがわかります。
保元の乱を経て、京都の政治は武力による解決が常態化し、武士の存在感が急激に高まりました。後白河院政下で台頭した信西に対し、藤原信頼と源義朝が挙兵したのが1159年の平治の乱です。熊野詣で不在だった平清盛は、急遽帰京して巧みな戦略で反乱軍を鎮圧。
この勝利により平氏政権の基盤が固まる一方、敗れた義朝の子・源頼朝らは奇跡的に助命されます。この温情が、後の平家滅亡へと繋がる歴史の皮肉な転換点となりました。
▼ この記事でわかること
- 武力で決まる政治への変化の理由
- 平清盛がクーデターに勝てた裏事情
- 源頼朝が処刑を免れた意外な理由
保元の乱で定着した武力という「前例」
1156年の保元の乱は、たった一日の戦闘で決着しましたが、政治のあり方を劇的に変えてしまいました。これまでの貴族社会では追放ですまされていた政争が、武力と暴力による完全な排除へと変化したのです。勝利した後白河天皇は、側近である信西の進言を受け入れ、薬子の変以来350年絶えていた斬首を復活させ、敗者を処刑しました。
この粛清には、源義朝の父や平清盛の叔父も含まれており、彼らは親族を自らの手で処刑するよう命じられました。これほど過酷な忠誠を示したにもかかわらず、義朝への恩賞は、清盛の待遇に比べて極めて低いものでした。暴力が問題を解決するという新たな「ルール」と、武士たちの間に生まれた不満が、次の火種となっていきます。
🔍 つまりどういうこと?🔍
保元の乱の事後処理で「死刑」が復活し、武力が政治決定の手段として定着しました。勝利の立役者である源義朝は、その貢献にもかかわらず冷遇され、破格の待遇を受けた平清盛との差に強い不満を抱きます。この「武力重視」と「武士の不満」が、次の争乱を引き起こす直接の原因となりました。
── では、この不満がどのように爆発したのかを見ていきましょう。
藤原信頼のクーデターと清盛不在の「隙」
保元の乱の後、後白河院政を支える信西に対抗して現れたのが藤原信頼です。出世を阻まれた信頼は、同じく不遇をかこつ源義朝と手を組みました。1160年1月、彼らに絶好のチャンスが訪れます。信西の最大の軍事的な後ろ盾である平清盛が、一族を連れて京を離れ、往復に時間のかかる熊野詣に出かけたことで、都が軍事的に空白になったのです。
清盛が都を留守にしてわずか5日後、信頼と義朝はクーデターを決行します。これが平治の乱の始まりです。彼らは信西の屋敷を襲撃して火を放ち、後白河上皇と二条天皇を幽閉しました。信西は逃亡の末に命を落とし、一時的に信頼と義朝が京都の支配権を握りますが、その勝利はあまりにも儚く、長くは続きませんでした。
🔍 つまりどういうこと?🔍
平清盛が熊野詣で京都を留守にした一瞬の隙を突き、不満を抱く藤原信頼と源義朝が挙兵しました。彼らはライバルの信西を殺害して天皇と上皇を確保し、一時的に政権を奪取することに成功します。しかし、軍事力を持つ清盛を討ち漏らしたことが、彼らの運命を大きく狂わせることになります。
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── では、清盛がどう反撃したのかを確認しましょう。
二条天皇の脱出と源氏敗北の「結末」
異変を知った清盛は直ちに京都へ戻り、六波羅の自邸に入りました。ここで形勢が逆転します。信頼の横暴な振る舞いに幻滅した二条天皇が、女装して御所を脱出し、六波羅へ逃げ込んだのです。後白河上皇もこれに続き、清盛は「官軍」としての正当性を得ました。逆賊となった義朝軍は総攻撃を受け、壊滅することになりました。
敗れた義朝は殺害され、長男・次男も命を落としました。しかし三男の源頼朝だけは、清盛の継母である池禅尼の必死の嘆願により、奇跡的に処刑を免れます。頼朝は伊豆へ、弟の義経は鞍馬寺へ送られました。この時、清盛が見せたわずかな温情が、将来平氏を滅ぼす最大の要因となるとは、まだ誰も知る由がありませんでした。
🔍 つまりどういうこと?🔍
天皇を味方につけた清盛が義朝を討ち取り、平氏の優位が確定しました。しかし、清盛が一時の情けで命を助けた源頼朝や義経の存在が、将来的に平氏一門を脅かすことになります。この勝利の中に、後の平家滅亡へとつながる「最大の火種」が、密かに残されることになったのです。
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── 最後に、この記事のまとめとFAQでおさらいしましょう。
まとめ:武士の時代到来を告げる平治の「乱」
保元の乱と平治の乱を経て、貴族による政治支配は終わりを告げました。問題解決の手段は「話し合い」から「武力」へと完全に移行し、その頂点に平清盛が立ちます。しかし、彼が一時の情けで生かした源氏の御曹司たちが、やがて平氏の栄華を根底から覆すことになるとは、この時、勝者の清盛でさえ予見できませんでした。
この記事のポイントは、以下の3つです。
‣保元の乱で確立された武力による解決
‣清盛の不在を狙ったクーデターの失敗
‣情けで救われた源氏による将来の報復
ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。
Q1.なぜ源義朝は、同じ武士である清盛と戦ったのですか?
保元の乱での功績に対し、清盛に比べて恩賞が少なかったことへの不満に加え、出世を望む藤原信頼と利害が一致したためです。
Q2.保元の乱と平治の乱、一番の違いは何ですか?
保元の乱は「皇室・貴族の跡継ぎ争い」が主軸でしたが、平治の乱は「側近同士の権力争い」であり、武士が主役となった点が異なります。
Q3.なぜ清盛は、敵である頼朝や義経を殺さなかったのですか?
継母の池禅尼が「亡き我が子に似ている」と熱心に助命を嘆願したためです。また、幼い彼らを政治的に無力だと軽視した可能性もあります。
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます
🖋この記事を書いた人🖋
Alex Kei(学び直し歴史ライター)
早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。🖋 この記事はどんな本を参考に?🖋

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