平治の乱と武士の台頭!なぜ清盛が勝てたのか|5分de探究#030

平安時代
平治の乱と武士の台頭!なぜ清盛が勝てたのか|5分de探究#030
【この記事は5分ほどで読めます】
平清盛は勝者なのに、なぜ最大の敵を生かしたのでしょうか。
清盛が犯したたった一つのミスとは。この記事を読めば、組織のトップが陥りやすい判断ミスの怖さがわかります。

保元の乱を経て、京都の政治は武力による解決が常態化し、武士の存在感が急激に高まりました。後白河院政下で台頭した信西に対し、藤原信頼源義朝が挙兵したのが1159年の平治の乱です。熊野詣で不在だった平清盛は、急遽帰京して巧みな戦略で反乱軍を鎮圧。

この勝利により平氏政権の基盤が固まる一方、敗れた義朝の子・源頼朝らは奇跡的に助命されます。この温情が、後の平家滅亡へと繋がる歴史の皮肉な転換点となりました。

▼ この記事でわかること

  • 武力で決まる政治への変化の理由
  • 平清盛がクーデターに勝てた裏事情
  • 源頼朝が処刑を免れた意外な理由

📚お読みになる前に📚

保元の乱で定着した武力という「前例」

信西:後白河院政下で絶大な権力を握り、急進的な改革を断行して周囲の反感を買った人物
斬首:薬子の変以来約350年ぶりに復活し、敗者を完全に排除するために断行された処罰
源義朝:保元の乱の勝利に大きく貢献するも、清盛に比べて恩賞が少なく不満を抱いた武将

1156年の保元の乱は、たった一日の戦闘で決着しましたが、政治のあり方を劇的に変えてしまいました。これまでの貴族社会では追放ですまされていた政争が、武力と暴力による完全な排除へと変化したのです。勝利した後白河天皇は、側近である信西の進言を受け入れ、薬子の変以来350年絶えていた斬首を復活させ、敗者を処刑しました。


この粛清には、源義朝の父や平清盛の叔父も含まれており、彼らは親族を自らの手で処刑するよう命じられました。これほど過酷な忠誠を示したにもかかわらず、義朝への恩賞は、清盛の待遇に比べて極めて低いものでした。暴力が問題を解決するという新たな「ルール」と、武士たちの間に生まれた不満が、次の火種となっていきます。

🔍 つまりどういうこと?🔍

保元の乱の事後処理で「死刑」が復活し、武力が政治決定の手段として定着しました。勝利の立役者である源義朝は、その貢献にもかかわらず冷遇され、破格の待遇を受けた平清盛との差に強い不満を抱きます。この「武力重視」「武士の不満」が、次の争乱を引き起こす直接の原因となりました。


燃え上がる三条殿と逃げ惑う公家たちの様子を描いた平治物語絵巻の画像


── では、この不満がどのように爆発したのかを見ていきましょう。

スポンサーリンク

藤原信頼のクーデターと清盛不在の「隙」

藤原信頼:後白河上皇の寵愛を受けて台頭するも、自身の出世を阻む信西と激しく対立した公家
熊野詣:平清盛が一家で京を離れて向かった、往復と参拝に約1ヶ月を要する紀伊半島への巡礼
平治の乱:1159年、清盛의 不在를 狙った信頼と義朝が、信西を襲撃して政権を奪取した政変

保元の乱の後、後白河院政を支える信西に対抗して現れたのが藤原信頼です。出世を阻まれた信頼は、同じく不遇をかこつ源義朝と手を組みました。1160年1月、彼らに絶好のチャンスが訪れます。信西の最大の軍事的な後ろ盾である平清盛が、一族を連れて京を離れ、往復に時間のかかる熊野詣に出かけたことで、都が軍事的に空白になったのです。


清盛が都を留守にしてわずか5日後、信頼と義朝はクーデターを決行します。これが平治の乱の始まりです。彼らは信西の屋敷を襲撃して火を放ち、後白河上皇と二条天皇を幽閉しました。信西は逃亡の末に命を落とし、一時的に信頼と義朝が京都の支配権を握りますが、その勝利はあまりにも儚く、長くは続きませんでした。

🔍 つまりどういうこと?🔍

平清盛が熊野詣で京都を留守にした一瞬の隙を突き、不満を抱く藤原信頼源義朝が挙兵しました。彼らはライバルの信西を殺害して天皇と上皇を確保し、一時的に政権を奪取することに成功します。しかし、軍事力を持つ清盛を討ち漏らしたことが、彼らの運命を大きく狂わせることになります。

💡 情報が混み合っていませんか?細かい時系列は、年号整理ページ にまとめてあります。是非ご活用ください。


京都へ急ぎ戻る平清盛とその軍勢の様子を描いた浮世絵風の画像


── では、清盛がどう反撃したのかを確認しましょう。

スポンサーリンク

二条天皇の脱出と源氏敗北の「結末」

六波羅:京都における平氏의 軍事拠点で、脱出した二条天皇や後白河上皇を保護した本拠地
池禅尼:捕らえられた源頼朝의 姿を亡き実子に重ね、継子の清盛に強く助命を嘆願した女性
源頼朝:処刑を免れて伊豆へ流罪となるも、後に平氏を倒して鎌倉幕府を開いた義朝の三男

異変を知った清盛は直ちに京都へ戻り、六波羅の自邸に入りました。ここで形勢が逆転します。信頼の横暴な振る舞いに幻滅した二条天皇が、女装して御所を脱出し、六波羅へ逃げ込んだのです。後白河上皇もこれに続き、清盛は「官軍」としての正当性を得ました。逆賊となった義朝軍は総攻撃を受け、壊滅することになりました。


敗れた義朝は殺害され、長男・次男も命を落としました。しかし三男の源頼朝だけは、清盛の継母である池禅尼の必死の嘆願により、奇跡的に処刑を免れます。頼朝は伊豆へ、弟の義経は鞍馬寺へ送られました。この時、清盛が見せたわずかな温情が、将来平氏を滅ぼす最大の要因となるとは、まだ誰も知る由がありませんでした。

🔍 つまりどういうこと?🔍

天皇を味方につけた清盛が義朝を討ち取り、平氏の優位が確定しました。しかし、清盛が一時の情けで命を助けた源頼朝や義経の存在が、将来的に平氏一門を脅かすことになります。この勝利の中に、後の平家滅亡へとつながる「最大の火種」が、密かに残されることになったのです。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「歴史は好きだけど、文字を読む時間はあまりない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

📚続けて読みたい 5分de探究記事📚

次回のお話はこちら!

平清盛と源頼朝の勝敗!武士が権力を握った理由|5分de探究#031
なぜ絶頂期の組織はあっけなく崩れ去ってしまうのか? 栄華を極めた平家の失敗と、ゼロから這い上がった頼朝の逆転劇は、現代のビジネスや人間関係にも通じる教訓です。長く愛されるリーダーの条件を学びます。
  • STEP 1.一気読みでサクッと把握5min

  • STEP 2.この記事で理解を深める5min

  • STEP 3.拡大版noteで裏側まで10min

── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

スポンサーリンク

まとめ:武士の時代到来を告げる平治の「乱」

保元の乱と平治の乱を経て、貴族による政治支配は終わりを告げました。問題解決の手段は「話し合い」から「武力」へと完全に移行し、その頂点に平清盛が立ちます。しかし、彼が一時の情けで生かした源氏の御曹司たちが、やがて平氏の栄華を根底から覆すことになるとは、この時、勝者の清盛でさえ予見できませんでした。
この記事のポイントは、以下の3つです。

保元の乱で確立された武力による解決
清盛の不在を狙ったクーデターの失敗
情けで救われた源氏による将来の報復

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.なぜ源義朝は、同じ武士である清盛と戦ったのですか?

保元の乱での功績に対し、清盛に比べて恩賞が少なかったことへの不満に加え、出世を望む藤原信頼と利害が一致したためです。

Q2.保元の乱と平治の乱、一番の違いは何ですか?

保元の乱は「皇室・貴族の跡継ぎ争い」が主軸でしたが、平治の乱は「側近同士の権力争い」であり、武士が主役となった点が異なります。

Q3.なぜ清盛は、敵である頼朝や義経を殺さなかったのですか?

継母の池禅尼が「亡き我が子に似ている」と熱心に助命を嘆願したためです。また、幼い彼らを政治的に無力だと軽視した可能性もあります。

[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
── 最後まで読んでくれたあなたへ。「5分の枠」には収まりきらなかった、もっとディープな歴史の裏側を覗いてみませんか?
📚このテーマのロング版記事📚


※鋭意製作中です。

👇noteではこんな話をしてます(目次)👇

※鋭意製作中。今しばらくお待ちください


スポンサーリンク
── もっと深く知りたい人向けに本のご紹介。

🖋 この記事はどんな本を参考に?🖋

本の表紙

当ブログと相性が抜群!図表が大量に掲載され、
学び直しに最適な一冊。
ご購入はこちらから

「高くてかさばる」歴史専門書の悩みにKindle Unlimitedなら、手が出しにくい
専門書も、スマホで手軽に読み放題。

コメント欄

タイトルとURLをコピーしました