北条政子と鎌倉幕府の危機!執権政治確立まで|5分de探究#033

鎌倉時代
北条政子と鎌倉幕府の危機!執権政治確立まで|5分de探究#033
【この記事は5分ほどで読めます】
もし頼れる社長が急にいなくなったら組織はどうなると思いますか?
創業家の血筋が途絶えたとき、一人の女性がどうやって崩壊を食い止めたのか。驚きの危機管理術と組織再建のドラマをお届けします。

鎌倉幕府は3代将軍源実朝が暗殺されたことで源氏の直系血統が断絶し、組織としての正統性を失う最大の危機に直面しました。この隙を突いて後鳥羽上皇が倒幕を掲げた承久の乱を起こしますが、亡き頼朝の妻である北条政子が御家人たちを結束させてこれを鎮圧します。

その後、彼女は京都から名目上の将軍を迎え入れ、実権を北条氏が握る執権政治の体制を確立させ、武家政権を盤石なものへと進化させたのです。

▼ この記事でわかること

  • 源氏将軍が断絶してしまった本当の理由
  • 尼将軍が組織の崩壊を救った演説の裏話
  • 執権政治という最強システムの正体

実朝暗殺と「源氏将軍の断絶」

公暁:鎌倉幕府2代将軍頼家の息子で、鶴岡八幡宮にて叔父の実朝を暗殺し、その場で討たれた僧侶。
源実朝:鎌倉幕府の3代将軍であり、歌人としても知られたが、鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺された悲劇の人物。
北条義時:政子の弟であり、実朝暗殺の際に体調不良で難を逃れたことから黒幕説も囁かれる鎌倉幕府の第2代執権。

鎌倉幕府に激震が走ったのは1219年の雪の日でした。鶴岡八幡宮での儀式の最中、3代将軍である源実朝が何者かに殺害されたのです。犯人はなんと、彼の甥にあたる公暁でした。公暁は父である2代将軍頼家が北条氏に排除された恨みを晴らすべく、叔父の実朝を襲ったと言われていますが、謎も多い事件です。


実は、この暗殺の背後には北条義時の影がちらついています。北条義時は当日、太刀持ちとして実朝に同行するはずでしたが、急な体調不良を理由に交代し難を逃れました。真相は闇の中ですが、結果として源氏の直系男子は完全に途絶え、幕府は「将軍不在」という異常事態に陥り、組織存続の危機に立たされたのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

将軍が親族である公暁に殺害され、源氏の正統な後継者がいなくなってしまいました。これにより鎌倉幕府は求心力を失いかけ、誰が次のリーダーになるのかという深刻な政治的空白が生まれたのです。まさに創業家の血筋が途絶え、組織が空中分解しかねない極めて危険な状態に陥ってしまったのです。


北条政子が御家人たちの前で演説を行おうとしている様子


── では、この未曾有の危機を誰が救ったのか見ていきましょう。

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尼将軍の演説と「承久の乱」

尼将軍:夫である頼朝の死後に出家し、実質的な指導者として御家人を統率して幕府の危機を救った北条政子の通称。
後鳥羽上皇:武家政権の拡大を快く思わず、朝廷の権力復権を目指して西国の武士を集め、倒幕の兵を挙げた実力者。
承久の乱:1221年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を目指して起こしたが、幕府軍に鎮圧された日本初の朝廷対武家の戦い。

「将軍不在」の隙を突いて動いたのが、京都の後鳥羽上皇でした。彼は平清盛以来失われていた皇室の権威を取り戻そうと、1221年に承久の乱を起こし、武家政権への反乱を企てます。「上皇さまに弓引くのか」と動揺する武士たち。この時、彼らの前に立ち、涙ながらに団結を呼びかけまとめ上げたのが北条政子でした。


政子は亡き夫・頼朝がくれた恩義の深さを訴え、日和見主義の御家人たちを幕府側に留まらせることに成功します。彼女のカリスマ性がなければ、武士たちは分裂し幕府は崩壊していたでしょう。結果、幕府軍は京都へ攻め上り上皇軍を鎮圧。上皇を配流し、朝廷に対する武家の優位を完全に決定づけることになったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

朝廷が幕府を潰そうとしましたが、政子が「頼朝様の恩を忘れたか」と武士たちを団結させて返り討ちにしました。これにより、「武士が朝廷をコントロールする」という、かつてない強力な支配体制が完成したのです。言葉の力で組織の崩壊を防いだ、まさに歴史的な大逆転劇だったと言えるでしょう。

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幼い貴族の子供が将軍の席に座り、後ろで北条氏が指示を出している様子


── では、その後の政治システムがどうなったか確認しましょう。

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執権政治と「傀儡将軍の誕生」

執権:将軍の補佐役でありながら、実質的に幕府の政治・軍事・裁判の全権を握るようになった北条氏世襲の役職。
藤原頼経:源氏断絶後、親王将軍を拒否された末に京都の摂関家から迎えられた、当時わずか7歳の幼い新将軍。
北条泰時:政子の甥であり、御成敗式目を制定するなど執権として武家政権の安定したシステムを築き上げた人物。

政子の死後、幕府は「将軍」という権威ある看板を京都から輸入するシステムを採用しました。最初に選ばれたのは藤原頼経、当時わずか7歳でした。以降、貴族や皇族から幼い子供を将軍として迎え入れ、大人の北条氏が執権として実権を握る形が定着します。かつての摂関政治の武家版とも言える構造への転換です。


この仕組みを完成させたのが、政子の甥である北条泰時らでした。将軍はお飾り(傀儡)として敬い、実際の政治判断や裁判は執権を中心に行う。このシステムのおかげで、北条氏は将軍にならずとも権力を維持できました。京都の朝廷と並存しながらも、武士の利益を最優先する日本初の長期安定政権がここに誕生したのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

「将軍は血統の良いお飾りでいい、政治は実力のある北条氏がやる」という割り切ったシステムを作りました。これにより、カリスマ将軍がいなくても組織が回るようになったのです。トップの血筋に頼らず、システムで組織を運営する近代的な統治機構への重要な歴史的転換点となりました。


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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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まとめ:尼将軍と執権の功績

北条政子のリーダーシップは、源氏断絶という危機的状況下でこそ輝きました。彼女が承久の乱を乗り越え、北条氏による執権政治への橋渡しをしたからこそ、鎌倉幕府はその後も長く続くことができたのです。一人の女性の決断が、日本の武家社会の運命を決定づけ、その後の歴史を大きく変えることになりました。
この記事のポイントは、以下の3つです。

源実朝暗殺による源氏将軍の断絶
承久の乱での政子の指導力
執権政治と傀儡将軍の定着

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.公暁はなぜ源実朝を暗殺したのですか?

父である2代将軍頼家が北条氏によって排除されたことへの復讐心から、叔父である実朝を殺害したとされています。

Q2.執権政治とは具体的にどのようなものですか?

将軍を名目上の存在とし、北条氏が執権として実際の政治や裁判の決定権を握る統治システムのことです。

Q3.なぜ京都の朝廷は幕府を倒せなかったのですか?

北条政子の呼びかけにより東国武士たちが団結したため、軍事力において朝廷軍を圧倒することができたからです。

[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
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