元寇(弘安の役)への対策?石築地建設と防衛強化|5分de探究#038

鎌倉時代
元寇(弘安の役)への対策?石築地建設と防衛強化|5分de探究#038
【この記事は5分ほどで読めます】
日本は神風だけで勝てたと思いますか?
実は一度目の苦戦を経て、鎌倉武士たちが必死で築いた鉄壁の防衛策がありました。当時の日本が生き残りをかけて下した決断を知れば、歴史の見方がガラッと変わります。

一度目の元寇「文永の役」は日本の勝利とは言い難く、博多陥落や神社の焼失など甚大な被害を受けました。再襲来を確信した執権・北条時宗は、モンゴルの使者を処刑し徹底抗戦を表明。博多湾岸には20キロに及ぶ石の防塁「石築地」を建設。

西日本の守護を北条一門で固めるなど、なりふり構わぬ独裁的な戦時体制を敷きます。さらには防衛だけでなく、高麗への逆侵攻計画すら練られていたという驚くべき事実まで残されています。

▼ この記事でわかること

  • 退路を断った処刑の真相
  • 博多湾を封鎖した壁の正体
  • 幻となった逆侵攻の裏話

📚お読みになる前に📚

苦戦と処刑、退路なき「決断」

文永の役:1274年に博多へ来襲したモンゴル軍が集団戦法や火器を用いて日本を圧倒した戦い
てつはう:モンゴル軍が実戦で使用した火薬兵器で炸裂音と閃光により日本の騎馬を驚かせた爆弾
龍ノ口:服属を迫るモンゴル帝国の使者たちを北条時宗の命により斬首して処刑した鎌倉の場所

教科書では「嵐で助かった」とされる文永の役ですが、実際は薄氷の勝利でした。てつはうなどの未知の兵器と組織的な集団戦法に対し、一騎打ちを重んじる日本側は苦戦を強いられます。博多の町は早々に陥落し、箱崎八幡宮も焼失。モンゴル軍が撤退したのは、連携の不備や嵐による損耗といった、敵側の事情によるものでした。


クビライは攻撃の手を緩めず、翌1275年に再び服属を求める使者を派遣します。しかし、若き執権・北条時宗の回答は鮮烈でした。使者たちを龍ノ口で斬首し、公然と敵対の意思を示したのです。これは単なる拒絶ではなく、モンゴル帝国に対する明確な宣戦布告であり、もはや外交による解決の道は完全に閉ざされました。

🔍 つまりどういうこと?🔍

最初の襲来は辛うじて敵が撤退しただけの薄氷の勝利でした。しかし鎌倉幕府は現状に甘んじず、使者を処刑することで自ら退路を断ちます。これにより交渉の余地は完全に消滅し、世界最強帝国との国を賭けた全面戦争へ突入することが、もはや避けられない決定事項となったのです。


処刑場へと連行されるモンゴルの使節団


── では、なぜモンゴル軍はすぐに報復に来なかったのでしょうか。

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南宋の滅亡と膨れ上がる「脅威」

フビライ:モンゴル帝国の第5代皇帝であり南宋を滅ぼしたのちに日本への再侵攻を命じた指導者
崖山の戦い:追い詰められた南宋軍がモンゴル軍に敗北して皇帝が入水し王朝が完全に滅亡した海戦
征東行省:クビライが日本征服計画の立案と実行のために設置した高麗や南宋の将軍らを含む役所

使者を殺されたフビライが即座に動かなかったのは、中国大陸での戦いが佳境を迎えていたからです。モンゴル軍は南宋の残党狩りを優先し、1279年の崖山の戦いでついにこれを滅ぼします。しかし、これは日本にとって悪夢の始まりでした。大陸での戦いが終わったことで、モンゴルの主力部隊がフリーハンドになったのです。


さらに深刻だったのは、南宋が保有していた強力な海軍がそのままモンゴルの手に渡ったことです。フビライは直ちに日本侵攻のための専門機関である征東行省を設置。ここには実戦経験豊富な旧南宋の将軍たちも組み込まれました。次なる侵攻は、前回のような偵察的なものではなく、帝国全土の力を結集した本気の征服戦争となることが確定します。

🔍 つまりどういうこと?🔍

モンゴル軍による報復が遅れたのは、中国統一を優先したためでした。しかし南宋の滅亡により、強大な海軍力と余剰兵力のすべてが日本へ向けられることになります。次の戦いは、前回の小競り合いとは比較にならない規模の、国家存亡をかけた大戦になることが確実視されました。

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博多湾に石を積み上げる武士たち


── 一方、迎え撃つ日本側はどのような準備をしていたのでしょうか。

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博多湾を封鎖する20キロの「防塁」

石築地:元寇防塁とも呼ばれ博多湾岸の約20キロにわたり築かれた石造りの非常に強固な防壁
安達泰盛:北条時宗の義父として幕府の実権を握り元寇への対応や防衛計画を主導した有力な武将
北条一門:執権政治を行う北条氏の一族であり有事に際して西日本の守護として配置された一族の人々

鎌倉幕府は、前回の反省から騎馬戦の不利を悟り、敵の上陸そのものを阻む作戦に出ます。それが博多湾岸を物理的に封鎖する石築地の建設でした。高さ2メートル前後の石壁が20キロも続くこの巨大な防衛ラインは、わずか半年から1年で完成。費用は大隅国の荘園所有者に課税するなど、武士以外の領地からも強制的に徴収して賄われました。


この国家的危機を利用し、政治体制も一変します。時宗と安達泰盛は、西日本の守護職を次々と更迭し、信頼できる北条一門を配置しました。さらに、「高麗への逆侵攻」すら計画され、命令書まで発給されていたのです。これは実行されませんでしたが、当時の幕府が守勢一方ではなく、なりふり構わぬ姿勢総力戦を準備していた証拠といえるでしょう。

🔍 つまりどういうこと?🔍

日本側は莫大なコストをかけて長大な石壁を築き、敵の上陸を水際で食い止める作戦を取りました。同時に権力を北条氏に集中させ、全国の資源を強制的に吸い上げる独裁的な戦時体制を完成させます。これは、なりふり構わず国を守り抜くという、鎌倉武士たちの強烈な意志の表れでした。


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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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まとめ:鉄壁の備えと一門「支配」

2度の元寇の間にあった「空白の期間」こそが、日本の運命を左右しました。北条時宗は使者を処刑して退路を断ち、全国から物資を徴発して博多湾を要塞化しました。神風の奇跡を待つのではなく、現実的な軍事力と政治力を総動員して、最強帝国を迎え撃つ準備を整えていたのです。このリアリズムこそが、国を救った最大の勝因だったと言えるでしょう。
この記事のポイントは、以下の3つです。

使者処刑による不退転の決断
南宋海軍を取り込んだ脅威の拡大
石築地建設と北条一門への権力集中

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.なぜ北条時宗は使者を処刑したのですか?

モンゴルへの服従を拒否し、国を挙げて戦うという強い意志を内外に示すためです。これにより、外交交渉の余地を完全に消滅させました。

Q2.石築地の建設費用は誰が払ったのですか?

九州の御家人だけでなく、荘園領主や寺社など、武士以外の支配地からも「役」として強制的に徴収されました。

Q3.逆侵攻計画は本気だったのですか?

命令書が現存しており、本気でした。守るだけでなく敵の拠点を叩くという、当時の幕府の攻撃的な姿勢がうかがえます。

[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
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