元寇の真実!2度目の神風とモンゴル敗北の理由|5分de探究#039

鎌倉時代
元寇の真実!2度目の神風とモンゴル敗北の理由|5分de探究#039
【この記事は5分ほどで読めます】
元寇の勝因は本当に神風だけだったのでしょうか?
実は教科書には載っていない武士たちの泥臭い奮闘や勝利が招いた皮肉な結末があります。

1281年の弘安の役で、モンゴル軍は博多の石塁台風により壊滅的な打撃を受けました。竹崎季長が描かせた蒙古襲来絵詞は、この戦いのリアルな実像を今に伝えています。しかし防衛戦であったため幕府は新たな領土を得られず、武士や寺社への十分な恩賞支払いが困難になりました。

この戦後処理の失敗が御家人たちの深刻な困窮と不満を招き、結果として強固だった鎌倉幕府の体制を内部から崩壊へと導く決定的な要因となったのです。

▼ この記事でわかること

  • 神風以前に敵を阻んだ塁の正体
  • 絵巻物が描かれた意外すぎる裏話
  • 勝利が幕府を崩壊させた驚きの理由

神風以前に敵を阻んだ博多の「石塁」

東路軍:朝鮮半島から出発し兵站の遅れで江南軍を待たずに攻撃を開始した寄せ集めの混成部隊
江南軍:旧南宋の兵を主力とし司令官の病死などが重なり到着が大幅に遅れた最大規模の主力部隊
石塁:前回の侵攻の反省から博多湾岸に約二十キロにわたり築かれ敵の上陸を阻止した石の防壁

1281年の再侵攻はクビライによる威信をかけた大規模な作戦でした。しかし先発した東路軍は博多湾に到着したものの、海岸線で予想外の大苦戦を強いられます。待ち構えていたのは、日本側が新たに築いた頑強な石塁でした。この長い防壁が敵の進行を完全に阻み、攻め手を欠いた彼らを志賀島への撤退へと余儀なくさせたのです。


一方、頼みの増援となるはずの江南軍は、司令官の急死などが重なり到着が大幅に遅れていました。両軍がようやく平戸付近で合流し、起死回生の総攻撃を仕掛けようとした矢先、あの巨大な台風が襲来します。つまり神風が吹く前に、日本の守備隊はすでに善戦しており、敵の侵略計画をあらかた崩し去っていたのが実情なのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

モンゴル軍の敗因は、単なる嵐による不運だけではありません。石塁による防御と、二つの軍団の連携ミスという人為的な要因が重なり、そこへ台風がトドメを刺したというのが実情です。神風はあくまで最後のダメ押しであり、日本の勝利は武士たちの周到な準備と粘り強さが生んだ結果だったのです。


絵巻物を広げて自分を指差す武士のイラスト


── では、なぜ当時の詳細がここまでわかるのか、ある武士の執念のお話に移りましょう。

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御恩を求め訴え出た武士の「執念」

竹崎季長:一番乗りの功名を立てたものの恩賞に不満を持ち海を渡り鎌倉へ直訴した肥後の御家人
安達泰盛:季長の直訴を異例の処置で受け入れ馬や所領を与えて武士の面目を保たせた幕府の有力者
蒙古襲来絵詞:自身の武功を証明し子孫に伝えるために季長が私財を投じてリアルに描かせた絵巻物

源平合戦などの記録が物語調であるのに対し、元寇の記録は非常にリアルで詳細です。これは九州の御家人である竹崎季長の功績と言えます。彼は戦功に対する報酬が不十分だと感じ、馬を売り払ってまで鎌倉へ出向き幕府に直訴しました。その結果、有力者である安達泰盛から異例の恩賞を得ることに成功したという経緯があります。


竹崎季長はこの栄誉を後世に残すため、蒙古襲来絵詞を制作させました。本来は「俺はこれだけやった!」という自己アピールのための資料ですが、敵味方の装備や戦術が克明に描かれており、現代の歴史家にとっては第一級の史料となっています。彼の個人的で強烈な出世欲と執念が、結果として歴史の空白を埋めることになったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

私たちが教科書で見る元寇の躍動感あるイメージ図は、実は恩賞アップを狙った一人の武士の自己PR資料が元になっています。個人の必死な就職活動のような行動が、結果的に当時の様子を伝える貴重な証拠となりました。歴史の真実は、意外にも個人の俗っぽい動機の中に隠されているのです。

💡 情報が混み合っていませんか?細かい時系列は、年号整理ページ にまとめてあります。是非ご活用ください。


空っぽの宝箱を前に頭を抱える幕府役人のイラスト


── では、この勝利がなぜ幕府を苦しめることになったのか、お財布事情を見てみましょう。

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勝利が幕府財政を圧迫した「矛盾」

御恩と奉公:将軍が所領を安堵する代償として御家人が戦時に命がけで軍役を負担する双務的な主従関係
十分な恩賞:戦争で勝利した側が敗者の土地や財産を奪い取り功績ある部下へ分配する莫大な成功報酬
寺社勢力:敵国降伏の祈祷を行い神風は自分たちの霊力による戦果だと主張し恩賞を求めた宗教勢力

鎌倉幕府の根幹は御恩と奉公のシステムでした。武士は戦利品や新しい土地といった十分な恩賞を期待して戦います。しかし、元寇は防衛戦であり、敵を撃退しても海外の領土を得られるわけではありませんでした。さらに、海底に沈んだモンゴル船からは財宝も回収できず、幕府の手元には配るべき資産が全くなかったのです。


それに追い打ちをかけたのが寺社勢力でした。「嵐を呼んだのは我々の祈りのおかげだ」として、彼らもまた多額の報酬を要求しました。膨大な戦費と、武士や寺社からの終わりのない請求。これらが幕府の財政を破綻させ、信頼関係を崩壊させました。勝利したにもかかわらず、皮肉にもそれが幕府崩壊への始まりとなったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

勝ったのに儲からない戦争が、幕府の首を真綿のように絞めました。「土地」という報酬の在庫切れが起き、信頼で結ばれていたシステム全体が機能不全に陥ったのです。元寇での勝利は、皮肉にも幕府の寿命を縮めることになった、歴史上で最も高くついた勝利だったと言えるのかもしれません。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「歴史は好きだけど、文字を読む時間はあまりない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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まとめ:勝利が突きつけた幕府の限界

元寇は、神風という偶然だけで勝った戦いではありませんでした。武士たちの奮闘と石塁による防御が前提にあり、その記録は一人の御家人の執念によって残されました。しかし、防衛戦であるがゆえに恩賞を用意できなかったことが、御恩と奉公という強固な幕府の支配構造を内部から崩壊させる原因となったのです。
この記事のポイントは、以下の3つです。

石塁と敵の連携ミスによるモンゴル軍の敗退
恩賞獲得への執念が生んだ貴重な史料
富なき勝利が招いた幕府の深刻な財政破綻

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.結局、元寇で日本が勝てた最大の要因は何ですか?

博多湾に築いた石塁による防衛成功と、敵軍の作戦連携の遅れ、そして最終的な台風の直撃という3つの要因が重なったためです。

Q2.竹崎季長はなぜ『蒙古襲来絵詞』を描かせたのですか?

自身の戦功を幕府に認めてもらい、十分な恩賞を得るための証拠とするため、またその栄誉を家宝として残すためです。

Q3.なぜ勝利したのに鎌倉幕府は衰退したのですか?

防衛戦で奪う土地がなく、武士や寺社へ恩賞を払えなかったことで、御家人たちの幕府への求心力が失われたからです。

[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
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