平城京と藤原氏の野望!長屋王の変と仏教利用|5分de探究#014

古墳‣飛鳥‣奈良時代
平城京と藤原氏の野望!長屋王の変と仏教利用|5分で探究#014
【この記事は5分ほどで読めます】
華やかな奈良の都、実は「権力闘争」の舞台だったことをご存知ですか?
仏教の都の裏で渦巻く藤原氏の野望と、巨大プロジェクトの真実とは。歴史のドロドロした裏側がスッキリ分かります。
奈良時代は華やかな仏教文化のイメージがありますが、その裏では壮絶な権力闘争が繰り広げられていました。持統天皇による藤原京の建設から平城京への遷都に至る過程で、天皇の権威を高めるための都市計画が進められます。

一方で、政治の実権を握ろうとしたのが藤原不比等をはじめとする藤原氏でした。彼らは皇室との婚姻関係を深め、ライバルである長屋王を排除し、民衆に影響力を持つ僧侶・行基さえも利用します。この記事では、藤原氏による政権掌握のリアルな歴史を紐解きます。

▼ この記事でわかること

  • 天皇の権威を示す平城京の狙い
  • ライバルを消した藤原氏の残酷さ
  • 藤原氏が行基を利用した理由
📚お読みになる前に📚

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なぜ平城京への遷都が必要だった?

藤原京:持統天皇らが造営した、日本初の中国式都城モデルの首都。
長安:唐の首都であり、古代日本の都づくりにおける最大のモデル。
天子南面:君主は北に座して南を向き、政治を行うべきとする思想。

政治の中心地である「都」は、単に人が住む場所ではありませんでした。当時の政権にとって、都は権威そのものを視覚化する装置だったのです。持統天皇の時代に完成した藤原京は、中国の長安をモデルにした画期的な都市でした。南北に走る道路をきれいに整備し、北側に宮殿を配置する構造は、まさに天子南面の思想を具現化したものです。


しかし、藤原京は数十年で放棄され、さらに北の地へ新しい都が作られます。それが「平和な城塞の都」、平城京です。同様に長安を模倣し、人口は20万人規模にまで膨れ上がりました。道路の一部は藤原京から引き継がれつつも、東大寺のような巨大寺院を抱えるこの新都は、天皇の力が以前よりも増していることを象徴する舞台装置として機能したのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

持統天皇らは長安を真似た藤原京を建設しました。藤原京の構造には、「天皇こそが世界の中心である」と国内外に示すための巨大なデモンストレーションの側面がありました。また、その後の藤原京から平城京への移転は、単なる引っ越しではなく、天皇の支配力と宗教的権威をより強力に見せつけるためのアップデートでした。


整然と区画された平城京の朱雀大路と、その奥にそびえる大極殿のイメージ


── では、この壮大な都で誰が実権を握っていったのかを見てみましょう。

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藤原氏は皇室にどう入り込んだのか?

藤原不比等:鎌足の息子であり、娘を天皇に嫁がせ権力を固めた政治家。
藤原不比等
文武天皇:持統天皇の孫で若くして即位し、藤原氏との結びつきが強い天皇。
文武天皇
長屋王:天武天皇の孫であり、左大臣として藤原氏と対立した皇族。

平城京の建設が進む裏で、政治の中枢では激しい権力闘争が起きていました。その中心にいたのが藤原不比等です。彼は父・鎌足の功績を背景に、娘を文武天皇の妃として送り込みました。文武天皇と不比等の娘との間に生まれたのが首皇子(のちの聖武天皇)です。文武天皇が若くして謎の死を遂げた際、不比等が暗躍したのではないかと疑う声さえあるほど、彼の影響力は絶大でした。


一方で、皇族出身の長屋王は藤原氏の専横をよしとしませんでした。不比等の死後、政権トップの長屋王は藤原氏の介入を牽制しました。これに対し、不比等の息子ら(藤原四兄弟)は「長屋王が国を転覆させようとしている」という無実の罪をでっち上げ、軍隊で彼の屋敷を包囲します。長屋王は自害し、一家は滅亡しました(長屋王の変)。

🔍 つまりどういうこと?🔍

藤原氏は「天皇の親戚」というポジションを手に入れることで、権力を握ろうとしました。そのために邪魔になる有力な皇族や政治家がいれば、陰謀や武力を使って容赦なく排除しました。長屋王の悲劇は、藤原氏が政権を独占するために行った強引な粛清の代表例です。

💡 情報が混み合っていませんか?細かい時系列は、年号整理ページ にまとめてあります。是非ご活用ください。


長屋王の屋敷が軍兵に取り囲まれ、緊迫した空気に包まれている夜の情景


── では、彼らが民衆に影響力を持つ「宗教」とどう向き合ったのかを確認しましょう。

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民衆を救う仏教をなぜ政治利用した?

行基:政府の許可なく民衆に仏教を説き、社会事業を行った僧侶。
因果応報:善い行いは善い結果を招くという、分かりやすい仏教の道理。
僧尼令:国家の許可なく僧侶になることや、民衆への布教を禁じた法律。

貴族たちの権力争いとは無縁の場所で、民衆の心をつかんでいた人物がいました。僧侶の行基です。行基による「善いことをすれば救われる」という因果応報の教えは人々を惹きつけ、ある時、農民たちが仕事を放り出して行基についていく事態が発生します。これは政府の税収を減らす行為であるため、僧尼令違反として彼を弾圧しました。


しかし、行基の人気は衰えるどころか、数万人規模に膨れ上がります。ここで藤原氏は方針を180度転換しました。「弾圧するより利用したほうが得策だ」と考えたのです。彼らは行基の活動を認め、その絶大な動員力を巨大な寺院建設などの国家プロジェクトに向けさせました。このしたたかさこそが、彼らが生き残った要因とも言えるでしょう。

🔍 つまりどういうこと?🔍

政府は当初、コントロールできない人気者の行基を危険視して禁止しました。しかし、彼の影響力が無視できないほど大きくなると、逆に彼を抱き込み利用する道を選びました。かつて仏教推進派の蘇我氏を倒した藤原氏が、今度は自らの権力基盤を固めるために、民衆に支持される仏教勢力を取り込んだのです。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「歴史は好きだけど、文字を読む時間はあまりない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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まとめ:平城京は権力闘争の巨大な舞台

  藤原京から平城京への流れは、単なる都市開発の歴史ではありません。それは、天皇の権威確立と、藤原氏による執念深い権力掌握のプロセスそのものでした。
この記事のポイントは、以下の3つです。

平城京は天皇の権威を示す舞台装置
藤原氏は婚姻と粛清で権力を握った
行基の力さえも政治的に利用された

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

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❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.藤原不比等は、具体的にどのような地位につきましたか?

彼は右大臣に就き、娘を天皇に嫁がせることで皇室の外戚としての地位を確立しました。これにより藤原氏繁栄の基礎を築きました。

Q2.長屋王の変は、本当に長屋王が謀反を企てたのですか?

研究では、長屋王は無実だった可能性が高いとされています。藤原氏が政敵を排除するために仕組んだ冤罪事件という見方が有力です。

Q3.行基はなぜ、国家から弾圧されたり称賛されたりしたのですか?

彼の動員力が脅威だったからです。敵に回れば恐ろしい存在ですが、味方にすれば巨大工事を可能にできる労働力源になり得たためです。

[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

[この記事を書いた人]

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。


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