天然痘と奈良時代の崩壊!藤原氏全滅と皇統断絶|5分de探究#015

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天然痘と奈良時代の崩壊!藤原氏全滅と皇統断絶|5分で探究#015
パンデミックが歴史を変えたのは、現代だけだと思いますか?


藤原氏全滅から皇統断絶まで、奈良時代を襲った悲劇の連鎖。教科書には載っていない裏側を”5分”で紐解きます。

▼ この記事でわかること

Q.天然痘は、いかにして奈良時代の崩壊と皇統断絶を招いたか?


天然痘藤原四兄弟が全滅。相次ぐ政変と道鏡事件を経て、皇統は天武系から天智系へと断絶・移動しました。
奈良時代は「天平文化」の華やかなイメージとは裏腹に、致死率の高い天然痘のパンデミックと、終わりのない権力闘争に彩られた過酷な時代でした。735年の疫病流行は人口の約3割を奪い、政権中枢の藤原氏を壊滅させます。

聖武天皇は仏教に救いを求め、大仏建立や遷都を繰り返しましたが、政治の混乱は収まりません。やがて娘の孝謙天皇(称徳天皇)と僧侶・道鏡の台頭、そして藤原氏による政権奪還工作を経て、皇統は「天武系」から「天智系」へと大きく転換することになります。

天然痘は政治をどう変えたか?

天然痘:高熱と全身の発疹を伴う致死率が高い疫病で、人類が根絶に成功した唯一の感染症。
行基:朝廷の弾圧を受けながらも民衆への布教や社会事業を行い、大仏建立に協力した名僧。
藤原広嗣(ひろつぐ)藤原氏の復権を狙って大宰府で反乱を起こすが、政府軍に敗れた貴族。

「感染症が歴史を変えた」と言われたら、信じられますか? 華やかな大仏や天平文化の陰で、奈良時代は「天然痘」という見えない敵との戦いに明け暮れていました。

735年から始まったパンデミックは、当時の日本の人口の約3人に1人の命を奪いました。この悲劇はすさまじく、政権の中枢にいた藤原不比等の4人の息子たち(
藤原四兄弟)が、なんと全員この病気で亡くなってしまいます。




皇族出身の橘諸兄(たちばなのもろえ)は、生き残った藤原氏を地方へ追いやろうとしました。これに反発したのが藤原広嗣であり、740年に九州で反乱を起こしましたが、政府軍にあっけなく鎮圧されます。

一方、朝廷はこの危機を脱するために
行基に協力を求め、巨大な東大寺と大仏の建立によって、国を霊的に守ろうとしました。

🔍 つまりどういうこと?🔍

天然痘の猛威によって藤原氏のトップが全滅し、政治のバランスが大きく崩れました。これにより反乱が起きるなど社会は不安定化し、人々は「神仏の力」に頼らざるを得なくなります。逆にその強い危機感こそが、大仏建立などの巨大仏教プロジェクトを推進する原動力となったのです。


東大寺の大仏が完成し、開眼供養が行われている荘厳な様子


──では、天皇はどう振る舞ったのかを見てみましょう。

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聖武天皇が都を捨てて彷徨う理由

聖武天皇:社会不安から仏教に帰依し、国分寺の建立や東大寺大仏造立の詔を出した天皇。
光明皇后:藤原不比等の娘として皇族以外から皇后となり、娘の孝謙天皇の政治を補佐した。
藤原仲麻呂:光明皇后の信頼を得て権勢を振るい、天皇から恵美押勝という名まで賜った貴族。

疫病、反乱、そして側近たちの争い。これらすべての災厄を一身に背負ったのが聖武天皇でした。悪い流れを断ち切るためか、あるいは内紛から逃れるためか、彼は数年間にわたり都を転々と移動させます。

しかし、資金不足などの理由でこの遷都計画は頓挫し、結局は平城京に戻ることになりました。彼はあらゆる手を尽くしましたが、状況は好転しませんでした。




疲れ果てた聖武天皇は、娘である孝謙天皇に譲位します。ここで実権を握ったのが、聖武の妻であり藤原氏出身の光明皇后と、彼女のお気に入りである藤原仲麻呂でした。

仲麻呂は、ライバルである橘氏(橘奈良麻呂)を粛清し、急速に権力を拡大します。
天皇という存在が、政治的なプレイヤーたちの道具として翻弄され始めた時期でもありました。

🔍 つまりどういうこと?🔍

聖武天皇は度重なる災厄から逃れるように遷都を繰り返しましたが、根本的な解決にはなりませんでした。彼が退いた後、藤原氏が再び盛り返すことになります。聖武天皇が「善いカルマ」を積もうと必死になっている裏で、宮廷では依然として血なまぐさい権力闘争が続いていたのです。

💡 情報が混み合っていませんか?細かい時系列は、年号整理ページ にまとめてあります。是非ご活用ください。


病床の孝謙上皇のそばで祈祷を行う僧侶・道鏡の様子


──では、前代未聞のスキャンダルと皇統の断絶について解説します。

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女帝と僧侶が招いた皇統の断絶

孝謙天皇:聖武天皇の娘として即位し、退位した後に再び重祚して称徳天皇となった女性君主。
道鏡:孝謙上皇の病を祈祷で治したことで寵愛を受け、法王にまで出世して政治介入した僧。
天智天皇:大化の改新を行った中大兄皇子。奈良時代末期に皇統が戻ることになる血脈の祖。

物語はクライマックスを迎えます。一度退位していた孝謙天皇(上皇)は、病気の治療を通じて僧侶の道鏡と親密になります。

これに危機感を抱いた藤原仲麻呂は反乱を起こしますが、返り討ちに遭い殺害されました(藤原仲麻呂の乱)。勝利した孝謙は再び皇位につき(
称徳天皇)、道鏡を重用します。




しかし、本当のドラマは称徳天皇の死後に起こります。称徳天皇の死後、後継者不在の混乱に乗じて藤原百川らが暗躍し、天智天皇系の白壁王(光仁天皇)を強引に即位させました。

これにより、壬申の乱以降続いてきた
天武天皇系の皇統は断絶し、藤原氏が主導する新たな時代へと転換しました。

🔍 つまりどういうこと?🔍    

女帝と僧侶の密接な関係は、既存の貴族との激しい対立を生み、最終的に藤原氏によるクーデター的な皇位継承工作を招きました。これにより、壬申の乱から約100年続いた天武天皇の血筋による支配は終わりを告げ、天智天皇の血筋へと皇統が完全に入れ替わる歴史的転換が起きたのです。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「歴史は好きだけど、文字を読む時間はあまりない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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結:疫病と政争に揺れた奈良時代

 天然痘という予期せぬ災害は、日本の歴史のコースを大きく変えました。藤原氏の浮き沈み皇統の変更は、まさに生存をかけた必死の対応の結果だったのです。
この記事のポイントは、以下の3つです。

天然痘で藤原氏の権力が一時崩壊
聖武天皇は仏教で国を救おうとした
称徳天皇の死で天武系の皇統断絶

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

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❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.天然痘の流行で、具体的に誰が亡くなりましたか?

当時の人口の約3割が死亡したとされ、政権を握っていた藤原不比等の4人の息子(藤原四兄弟)も全員亡くなるという壊滅的な被害が出ました。

Q2.道鏡は本当に天皇になろうとしたのですか?

『続日本紀』には彼を天皇にする議論があったと記されていますが、最終的に称徳天皇が却下したとされ、真相は政治闘争の中に埋もれています。

Q3.なぜ最終的に藤原氏がまた権力を握れたのですか?

称徳天皇の死後、藤原百川らが天智天皇系の子孫を擁立することに成功し、ライバルを排除して再び政権中枢に返り咲いたからです。

各時代の FAQ は、FAQまとめページ で一気見できます。是非ご活用ください。
[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
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