▼ この記事でわかること
明治新政府内では、薩摩・長州の藩閥勢力と、土佐・肥前の自由主義派が激しく対立していました。伊藤博文ら薩長派は、「明治十四年の政変」などの政争を通じて板垣退助や大隈重信を追放し、権力を独占します。
これに対し板垣らは自由民権運動を展開し、政党を結成して激しく対抗しました。伊藤はドイツ流の大日本帝国憲法を制定して統制を図りますが、議会は予算審議権を武器に政府へ反撃を開始し、立憲政治への道が開かれたのです。
政敵を追放せよ!伊藤博文が仕掛けた「罠」
明治維新後の新政府は、決して一枚岩の組織ではありませんでした。政府内部では、薩摩・長州出身の独裁的ブロックと、土佐・肥前出身の自由主義ブロックが主導権を巡り激しく対立していたのです。この深い亀裂が決定的となって表面化し、政府を二分したのが、外交方針を巡る征韓論の激しい論争と、それに続く明治六年の政変でした。
土佐の板垣退助らが去った後も、肥前の大隈重信は政府に残り改革を訴え続けました。しかし、彼もまた伊藤博文の巧みな策略によって追い出されます。伊藤はスキャンダルを利用して大隈の信用を失墜させ、明治十四年の政変を断行しました。これにより、薩長藩閥による長期的な独裁支配体制が、盤石なものとして完成することになったのです。
🔍 つまりどういうこと?🔍
明治政府内の対立は、単なる思想の違いだけでなく、出身藩による地理的な権力争いの側面も色濃く持っていました。伊藤博文ら薩長派は、政敵である板垣や大隈を次々と追放するという強硬手段を用いることで、自分たちに都合の良い独裁的な権力基盤を、誰にも邪魔されない形で確立することに成功したのです。
── では、野に下った彼らはどう動いたのでしょうか。
板垣退助の執念!言論で戦う自由への「道」
政府を追われた板垣退助と大隈重信は、ただ黙って引き下がったわけではありません。彼らはそれぞれ自由党と立憲改進党を組織し、国民の声を背景に政府へ対抗しようとしました。これが全国的なうねりとなった自由民権運動です。彼らは言論と組織の力で、閉鎖的な藩閥政府に対して風穴を開けようと、全国各地で激しく迫ったのです。
運動は時に過熱し、各地で暴力的な衝突すら招きました。板垣が岐阜で暴漢に襲われた際、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという逸話はあまりに有名です。この事件は運動の象徴として語り継がれ、彼らの要求は政府も無視できないほどの大きな社会的圧力となり、国会開設を約束させるところまで政府を追い詰めていったのです。
🔍 つまりどういうこと?🔍
権力の座を追われた自由主義者たちは、日本初の政党を結成することで組織的な反撃に出ました。命の危険すら伴う激しい活動を通じて、彼らは専制的な政府に対し、国民の代表による政治参加と国会の即時開設を強く迫り続け、その声は政府も無視できないほどの大きな国民的うねりへと成長したのです。
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── では、政府はどのように応じたのでしょうか。
伊藤博文の誤算!予算を盾に戦う議会の「壁」
伊藤博文は、ドイツ(プロイセン)をモデルに大日本帝国憲法を作成しました。これは天皇に強い権限を残しつつ、民衆の不満のガス抜きとして帝国議会を設置するものでした。しかし、天皇が直接統治しないシステムは権力の所在を曖昧にし、これが後に軍部の暴走などを招く国家の構造的な弱点ともなってしまったことは否めません。
伊藤にとって最大の誤算は、議会が持つ「予算審議権」の想定以上の強さでした。選挙で勝った民党(野党)は、予算成立を人質に取って政府を激しく攻撃したのです。これに対抗するため、伊藤自身も立憲政友会という政党を作らざるを得なくなりました。独裁を目指した彼が、皮肉にも日本の政党政治の扉を自ら開くことになったのです。
🔍 つまりどういうこと?🔍
伊藤博文は憲法制定によって民権運動をコントロールしようと画策しましたが、議会に与えた予算審議権がブーメランのように政府を苦しめる結果となりました。こうして政府と政党が互いに駆け引きを行う、近代的な議会政治の土台が、皮肉にも独裁を目指した伊藤の手によって出来上がっていったのです。
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── 最後に、この記事のまとめとFAQでおさらいしましょう。
まとめ:明治の政治闘争が生んだ「立憲」
明治憲法体制は、伊藤博文ら藩閥政府が自由民権運動を抑え込むために設計した精巧な装置でした。しかし、排除された板垣退助や大隈重信らの執念と、議会に与えられた権限が、独裁的な統治に大きな風穴を開けました。完全な民主主義ではないものの、この熱い攻防こそが、現在の日本の政党政治へと続く重要な原点となったのです。
この記事のポイントは、以下の3つです。
‣政敵排除で固めた薩長藩閥の独裁
‣言論と政党で対抗した民権派の熱
‣議会運営に苦戦し政党を作った伊藤
ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。
Q1.明治憲法はいつ、誰が中心となって作られましたか?
1889年に発布されました。伊藤博文が中心となり、井上毅や金子堅太郎らと共に、ドイツの憲法学者グナイストらの助言を得て起草しました。
Q2.なぜ自由党と立憲改進党は分裂していたのですか?
支持基盤や理想とする政治モデルが異なったからです。自由党はフランス流の急進的な変革を、改進党はイギリス流の穏健な議会政治を目指しました。
Q3.天皇主権だったのに、実際は天皇が政治をしなかったのはなぜ?
政治的失敗の責任を負わないためです。天皇は神聖な象徴として振る舞い、実際の政治判断と責任は国務大臣らが負う形式が取られました。
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます
🖋この記事を書いた人🖋
Alex Kei(学び直し歴史ライター)
早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。🖋 この記事はどんな本を参考に?🖋

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