建武の新政はなぜ失敗?後醍醐天皇と尊氏の決裂|5分de探究#046

室町時代
建武の新政はなぜ失敗?後醍醐天皇と尊氏の決裂|5分de探究#046
【この記事は5分ほどで読めます】
成果に見合う報酬がない組織に不満を感じませんか。
対価を払わないリーダーには、人はついてきません。給与未払いで崩壊した政権と、実利で心を掴んだ武将の対比から、組織で生き抜く要諦が掴めます。

後醍醐天皇による「建武の新政」は、武士への恩賞を軽視し貴族を優遇したため、急速に支持を失いました。一方、足利尊氏は「征夷大将軍」の地位を望むも拒否され、対立が決定的となります。

一度は敗走した尊氏ですが、ライバル系統の皇族を担ぎ上げ、土地の安堵を約束する「実利」で武士を掌握しました。理想主義の天皇に対し、徹底した現実主義で対抗し、九州から奇跡の逆転劇を果たした歴史の転換点を、詳細に解説します。

▼ この記事でわかること

  • 恩賞格差が招いた政権崩壊の真実
  • 足利尊氏が逆賊とされた驚きの背景
  • 九州から大逆転できた実利策の正体

恩賞格差が招いた政権の「崩壊」

建武の新政:後醍醐天皇が鎌倉幕府滅亡後に行った、天皇に権力を集中させる復古的な政治の改革
守護:国ごとの軍事・警察権を統括し、現地の武士たちをまとめ上げる権限を持つ地方の官職
太平記:南北朝時代の動乱を描いた軍記物語で、後醍醐天皇や足利尊氏らの活躍を記した書物

鎌倉幕府を倒し、意気揚々と始まった「建武の新政」ですが、実はスタート時点から大きな爆弾を抱えていました。それは、命がけで戦った武士への冷遇です。当時の武士にとって、戦争とは土地(恩賞)を得るためのビジネスそのものでした。しかし後醍醐天皇は、没収した北条氏の領地を、武士ではなく京都の公家や貴族に優先して与えてしまったのです。


『太平記』には、50カ国以上の「守護」職が貴族に独占されたと記されています。例えば、赤松則村という武士は、播磨国で反乱を指揮した功労者だったにもかかわらず、その役職を剥奪され、貴族にポストを奪われてしまいました。武装した集団に対する「給料の不払い」は、政権に対する不満の火種となるには十分すぎる、あまりに危険な行為でした。

🔍 つまりどういうこと?🔍

後醍醐天皇は、新政権の基盤固めのために貴族の経済力を優先し、実力部隊である武士への報酬を出し惜しみしました。命がけで戦ったのに報われないこの恩賞格差こそが、武士たちの心を天皇から離れさせ、自分たちの利益を守ってくれる次のリーダーを求める土壌を作ってしまったのです。


報酬を貰えず不満を抱く武士たちのイメージ


── では、武士たちの不満は誰に向かったのかを見ていきましょう。

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将軍職を巡る二人の「確執」

征夷大将軍:武士の棟梁として軍事指揮権を持ち、幕府を開く資格となる最高位にあたる武官の職
護良親王:後醍醐天皇の皇子でありながら、足利尊氏と激しく対立し非業の死を遂げた悲劇の人物
中先代の乱:北条氏の残党が鎌倉を襲撃し、建武政権崩壊と尊氏離反の引き金となった大規模な反乱

武士たちが次なる希望として仰いだのが、源氏の名門・足利尊氏です。尊氏は、かつての源頼朝と同じように「征夷大将軍」になることを強く望んでいました。しかし、武家政権の復活を何より嫌う後醍醐天皇はこれを頑なに拒否。あろうことか、自分の息子である「護良親王」を将軍に据えてしまいます。この人事は、尊氏にとって明確な「拒絶」のメッセージでした。


事態が動いたのは1335年、北条氏の残党が鎌倉を襲う「中先代の乱」が起きた時です。混乱の中、護良親王は殺害され、尊氏は天皇の許可を得ずに軍を動かし鎌倉を奪還しました。さらに、独自に恩賞を与えて自らを「将軍」と宣言。これに激怒した後醍醐天皇は尊氏を「朝敵」と認定し、ついに両者は後戻りできない武力衝突へと突入します。

🔍 つまりどういうこと?🔍

武士のための政権を作りたい尊氏と、天皇親政を守りたい後醍醐の対立は、将軍職というポストを巡って決定的になりました。尊氏は既成事実を作ることで強引に権力を掌握しようとし、後醍醐はそれを許さず討伐を命じました。こうして政治的な駆け引きは限界を迎え、武力による全面対決へと発展したのです。

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敗走しながらも策を練る足利尊氏の様子


── では、敗走した尊氏が打った起死回生の一手を見ていきましょう。

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九州から再起した驚きの「実利策」

朝敵:天皇や朝廷に弓引く反逆者を指し、討伐の対象として公式に認定された国家の敵対者
光厳上皇:後醍醐天皇と対立する持明院統の出身で、尊氏に正当性を与える院宣を下した元天皇
実利主義:理想や建前よりも、実際の利益や効果を最優先に行動を決定する現実的な思考や態度

「朝敵」とされた尊氏は、京都での戦いに敗れ、遠く九州まで敗走します。普通ならここで終わりですが、彼は驚くべき「実利主義」を発揮しました。まず、後醍醐天皇と敵対する系統の「光厳上皇」から院宣(命令書)を入手。これにより、自分は反逆者ではなく、もう一人の天皇の意思を継ぐ「官軍」だという理屈を無理やりにでもひねり出したのです。


さらに凄まじいのは、武士たちへの直接的な「買収」とも言える交渉です。尊氏は四国の細川氏には四国全土の支配権を、かつて後醍醐に裏切られた赤松氏には三カ国の守護職を約束しました。「勝てば必ず望みのモノをやる」という強力なメッセージは、理想ばかりで報酬をくれない政府に疲弊しきった武士の心に、深く鋭く突き刺さりました。

🔍 つまりどういうこと?🔍

尊氏は別の天皇の権威という大義名分と、莫大な土地の約束という実利の二つの武器を使って、短期間で勢力を回復させました。綺麗事よりも、目の前の利益を確実に保証してくれるリーダー。それこそが、生活のかかった当時の武士たちが心の底から求めていた答えだったのです。


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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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まとめ:理想と現実が分けた「勝敗」

建武の新政が短命に終わった最大の要因は、後醍醐天皇が武士にとっての「生活の糧(土地)」を軽視したことにありました。対する足利尊氏は、権威の正当性すら巧みに利用しつつ、武士が最も欲する利益を提示することで支持を拡大しました。この「理想と現実」に対する対応力の決定的な差こそが、時代の勝者を分け、新たな歴史を作ったのです。
この記事のポイントは、以下の3つです。

武士の不満を招いた恩賞の不平等
尊氏の野望を拒んだ将軍職の不在
逆転を可能にした冷徹な実利主義

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.なぜ後醍醐天皇は武士に冷たかったのですか?

天皇中心の政治を取り戻すため、伝統ある公家や貴族の経済基盤を再建することを最優先課題と考えていたからです。

Q2.尊氏が西国(九州・四国)の武士を味方にできたのはなぜ?

後醍醐政権下で冷遇されていた彼らに、勝利した暁には必ず土地や役職を与えると具体的に約束したからです。

Q3.この歴史から学べる現代への教訓は何ですか?

組織を運営する際、メンバーへの適切な報酬やインセンティブを無視して理想だけを掲げても、人はついてこないということです。

[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
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