南北朝時代の始まり!尊氏の離反と2つの朝廷|5分de探究#047

室町時代
南北朝時代の始まり!尊氏の離反と2つの朝廷|5分de探究#047
【この記事は5分ほどで読めます】
なぜ日本に天皇が二人もいたのか?
実はこの混乱、ある二人の英雄の決裂が原因でした。ドロドロの人間ドラマを知れば、難解な歴史の流れがすっきり頭に入ります。

建武の新政が崩壊し、足利尊氏後醍醐天皇が対立。湊川の戦いで忠臣・楠木正成が敗死すると、尊氏は京都を制圧し室町幕府を樹立します。これに対し後醍醐は吉野へ逃れ、日本は北朝南朝に分裂。

さらに幕府内部でも尊氏と弟・直義が争う「観応の擾乱」が勃発し、情勢は混迷を極めます。こうして始まった南北朝の動乱は尊氏の死後も続き、孫の義満の代まで約60年にわたり日本を二分する激動の時代となりました。

▼ この記事でわかること

  • 忠臣の楠木正成が散った本当の理由
  • 朝廷が二つに分裂した衝撃の裏話
  • 最強組織を壊した兄弟喧嘩の結末

📚お読みになる前に📚

尊氏の離反と「湊川の戦い」

太平記:南北朝の動乱を描いた軍記物語で、歴史的正確さよりも文学的演出や娯楽性が強い古典。
楠木正成:後醍醐天皇に忠義を尽くした武将で、湊川の戦いにおいて不利を悟りつつ自害した英雄。
七生報国:七回生まれ変わっても朝敵を滅ぼすという誓いで、正成と弟が最期に交わした言葉。

足利尊氏が反旗を翻した際、『太平記』によれば、後醍醐天皇のもとには二つの意見がありました。新田義貞「尊氏を討つべし」と主張しましたが、楠木正成は尊氏との和睦を進言します。しかし天皇は強硬策を選び、正成に兵庫の「湊川」での迎撃を命じました。勝ち目のない戦いと知りながら、正成は覚悟を決めてこれに従います。


海からの包囲を受けた正成は敗北を悟り、弟の正季と「七生報国」を誓って自害しました。この壮絶な最期は、後世において皇室への忠誠の象徴として語り継がれることになります。一方、この勝利によって尊氏は京都を制圧し、天皇を追い落とすことに成功するに至るのです。忠義と実利、二つの価値観が激突した瞬間でした。

🔍 つまりどういうこと?🔍

後醍醐天皇は、楠木正成が提案した現実的な和平案を退けて決戦を選択しました。その結果、かけがえのない忠臣である正成を失っただけでなく、自らも京都を追われる事態を招いたのです。一方で、圧倒的な軍事力を持つ尊氏が勝利したことで、新しい武家政権が樹立される決定的な転換点となりました。


京都を追われた後醍醐天皇が吉野の山中へ向かう様子


── では、二つに割れた朝廷の行方を見ていきましょう。

スポンサーリンク

朝廷の分裂と「南北朝時代」

室町幕府:足利尊氏が征夷大将軍となり京都に開いた武家政権で、花の御所を拠点とした統治機構。
吉野:奈良県の山深い地域で、京都を追われた後醍醐天皇が南朝の拠点を構え抵抗した場所。
北畠親房:南朝の正統性を主張する『神皇正統記』を著し、後醍醐天皇を理論面で支えた公家。

京都を制圧した尊氏は、光明天皇を擁立し、征夷大将軍となって室町幕府を開きました。しかし、後醍醐天皇は退位を認めず、神璽を持って奈良の吉野へ逃亡します。これが「南朝」の始まりです。京都の「北朝」吉野「南朝」、二人の天皇が同時に存在する異常事態となり、全国の武士二派に分かれて争い始めました。


後醍醐の死後も、北畠親房のような側近や、九州へ渡った懐良親王などが抵抗を続けました。親房は『神皇正統記』を執筆し、血統の正統性を訴えることで味方を鼓舞します。尊氏は最大のライバルである新田義貞を討ち取りましたが、南朝側の抵抗は予想以上に根強く、内乱はここから数十年にわたって泥沼化していきました。

🔍 つまりどういうこと?🔍

京都に拠点を置く北朝と、吉野の山中に逃れた南朝という、二つの政府が同時に存在する異常事態となりました。これにより、全国の武士たちも二派に分かれて争うことになり、内戦状態が常態化してしまったのです。尊氏は京都を制圧したものの決定的な勝利を得ることができず、戦いは長期戦の様相を呈しました。

💡 情報が混み合っていませんか?細かい時系列は、年号整理ページ にまとめてあります。是非ご活用ください。


足利尊氏と弟の直義が対立し背を向け合うイメージ


── では、幕府内部で起きた亀裂を見てみましょう。

スポンサーリンク

骨肉の争いと「観応の擾乱」

足利直義:尊氏の弟で幕府の行政面を取り仕切ったが、兄や側近との対立から南朝へ一時降伏した。
高師直:尊氏の執事として軍事力を振るったが、権威を軽視する態度などで直義と激しく対立した。
観応の擾乱:幕府内で尊氏派と直義派が争った内戦で、南朝を利することになり混乱を長期化させた。

南朝との戦いが続くなか、室町幕府内部に致命的な亀裂が入ります。軍事を司る尊氏と、行政を担う弟足利直義の対立です。特に尊氏の右腕である執事の高師直と直義の不仲は深刻で、暗殺計画の噂まで飛び交いました。ついに直義は兄に対抗するため、あろうことか敵である南朝に降伏するという驚くべき行動に出るのです。


これが「観応の擾乱」と呼ばれる幕府の内乱です。昨日の味方が今日の敵となり、尊氏は実の弟を追討せざるを得なくなりました。この混乱により幕府の統制は緩み、南朝の息を吹き返させてしまいます。結局、尊氏は1358年に亡くなるまで、戦乱の終結を見ることはできませんでした。この不毛な争いは、組織運営の難しさを物語っています。

🔍 つまりどういうこと?🔍

外部の敵である南朝との戦いが続いているにもかかわらず、幕府内部で身内同士が争う事態となりました。この内部対立が原因で尊氏は戦乱を収束させることができぬまま世を去り、南北朝の合一孫の代まで持ち越されることになったのです。どんなに強力な組織であっても、内部の分裂には脆いという歴史の教訓です。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「歴史は好きだけど、文字を読む時間はあまりない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

📚続けて読みたい 5分de探究記事📚

次回のお話はこちら!

足利義満と金閣寺の正体!勘合貿易と日本国王|5分de探究#048
なぜ金閣寺を建てた最強の将軍が中国の家来になったのでしょうか? 一見最強に見える、組織が抱える意外な脆さと、義満の知られざる生存戦略を紐解きましょう。
  • STEP 1.一気読みでサクッと把握5min

  • STEP 2.この記事で理解を深める5min

  • STEP 3.拡大版noteで裏側まで10min

── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

スポンサーリンク

60年に及ぶ「動乱の結末」

最終的に南北朝が合一されるのは、尊氏の孫、足利義満の時代になってからです。後醍醐天皇の「天皇親政」の夢は破れましたが、彼らが残した「忠義」「正統性」の議論は、数百年後の幕末や近代に至るまで、日本人の精神史に大きな影響を与え続けました。
この記事のポイントは、以下の3つです。

忠義の象徴となった正成の最期
二つの正統性が争った南北朝
組織を内側から壊す内部対立

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.楠木正成はなぜ勝ち目のない戦い挑んだのですか?

後醍醐天皇への絶対的な忠誠心があったからです。彼は勝利よりも主君の命令に従い、潔く散る道を選びました。

Q2.北朝と南朝にはどのような違いがあったのですか?

北朝は京都を拠点とし足利氏が支援した朝廷、南朝は吉野を拠点とし後醍醐天皇の血統が正統性を主張した朝廷です。

Q3.なぜ尊氏は圧倒的有利なのに長年勝てなかったのですか?

観応の擾乱に代表される身内同士の争いが絶えなかったためです。内部対立が敵である南朝を存続させる隙を生みました。

[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
── 最後まで読んでくれたあなたへ。「5分の枠」には収まりきらなかった、もっとディープな歴史の裏側を覗いてみませんか?
📚このテーマのロング版記事📚


※鋭意製作中です。

👇noteではこんな話をしてます(目次)👇

高師直は本当に「悪」だったのか?
楠木正成が描いた「幻の勝利への道」


スポンサーリンク
── もっと深く知りたい人向けに本のご紹介。

🖋 この記事はどんな本を参考に?🖋

本の表紙

当ブログと相性が抜群!図表が大量に掲載され、
学び直しに最適な一冊。
ご購入はこちらから

「高くてかさばる」歴史専門書の悩みにKindle Unlimitedなら、手が出しにくい
専門書も、スマホで手軽に読み放題。

コメント欄

タイトルとURLをコピーしました