実はあの応仁の乱も、将軍の家庭トラブルが原因でした。一見複雑な歴史も、ドロドロの人間関係から紐解けば、今の私たちでもスッキリ理解できます。
足利義政は政治よりも芸術を愛した将軍で、早期引退を望み弟の義視を後継者に指名しました。しかし妻の日野富子に息子・義尚が誕生し、将軍家の継承問題が勃発します。
ここに細川勝元や山名宗全ら守護大名の権力争いが絡み、京都を焼き尽くす「応仁の乱」へと発展しました。11年に及ぶ不毛な争いは将軍の権威を完全に失墜させ、実力こそが正義とされる「戦国時代」を招く結果となったのです。
▼ この記事でわかること
- 妻と愛人に揺れた将軍の家庭事情
- 大乱が泥沼化した意外すぎる理由
- 権威崩壊が招いた新時代の幕開け
政治を捨てた「将軍の憂鬱」
足利義政は8歳で将軍職に就きましたが、周囲の有力者に操られる立場にありました。彼は政治の煩わしさを嫌い、書画や芸能などの芸術分野へと逃避します。そんな彼の周りでは、正室である日野富子と、乳母でありながら義政と親密な関係にあった今参局との間で、女性同士の激しい主導権争いが繰り広げられていたのです。
富子にとって最大の問題は、義政との間に世継ぎが生まれなかったことです。焦った富子周辺では、今参局が呪いをかけたという噂が流され、彼女を自害に追い込むほど事態は深刻化します。義政自身も将軍職への未練はなく、早く引退して趣味に生きたいと願うばかりでした。この家庭内の不和とトップの無責任さが、大乱の遠因となります。
🔍 つまりどういうこと?🔍
将軍・義政は政治に関心がなく、家庭内では妻の富子と側近たちの権力争いが激化していました。世継ぎ問題や個人的な嫉妬が複雑に絡み合い、幕府の中枢は機能不全に陥っていたのです。リーダーの不在と家庭内の混乱が、国全体を巻き込む大戦争を引き起こす最悪の土壌となってしまいました。
── では、後継者問題がどのように戦争へ発展したのか見ていきましょう。
京を焦がす「二つの正義」
義政は早期隠居のため、僧侶となっていた弟の足利義視を無理やり還俗させ、次期将軍に指名しました。しかし皮肉なことに、その翌年、富子に実子の足利義尚が誕生します。富子は我が子を将軍にするため画策し、義政も実子への愛情から心が揺らぎ始めました。ここに「弟か、息子か」という決定的な対立構造が生まれてしまったのです。
この将軍家の内紛に、守護大名たちの権力争いが合流しました。細川勝元は義視を支持して「東軍」を組織し、山名宗全は義尚・富子派と結んで「西軍」を率います。さらに畠山氏や斯波氏の家督争いも絡み合い、1467年、京都を主戦場とする応仁の乱が勃発。双方の正義がぶつかり合う、終わりの見えない泥沼の戦いが始まってしまったのです。
🔍 つまりどういうこと?🔍
一度は弟への継承を決めた義政でしたが、実子が生まれたことで方針がブレてしまいました。そこに細川氏や山名氏といった有力大名の勢力争いが便乗し、将軍家の個人的な問題が、全国の武士を巻き込む大規模な戦争へと拡大してしまったのです。優柔不断な態度が、取り返しのつかない事態を招きました。
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── では、この乱が後の時代に何をもたらしたのかを確認しましょう。
秩序崩壊と「新時代の風」
京都の市街地での戦闘では、騎馬武者より小回りの利く「足軽」が主力として台頭しました。彼らは集団で動き、放火や略奪も厭わず、伝統的な戦のルールを破壊します。11年続いた乱は勝者なきまま自然消滅しますが、京都は焼け野原となり、幕府の権威は失墜。地方の守護たちは自立を強め、実力主義の戦国時代へ突入することになりました。
一方、戦乱の責任者であるはずの義政は、早期に息子へ将軍職を譲り、念願の隠居生活に入ります。彼は京都の東山に山荘(現在の銀閣寺)を造営し、茶の湯や生け花など、今日に続く日本文化の基礎となる「東山文化」を築き上げました。政治家としては無能と評されますが、彼の美意識は戦乱の世に皮肉にも美しく開花することになったのです。
🔍 つまりどういうこと?🔍
応仁の乱は、古い権威を破壊し、身分に関わらず実力のある者がのし上がる下克上の世の中を作り出しました。政治的な大混乱の一方で、義政の文化的功績は深く日本人の心に刻まれ、わび・さびなど現代にも通じる美的価値観を残しています。破壊と創造が同時に進行した、皮肉な時代だったと言えるでしょう。
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── 最後に、この記事のまとめとFAQでおさらいしましょう。
まとめ:歴史を動かした「人間模様」
足利義政という一人の将軍の政治的無関心と、後継者を巡る家族間の愛憎劇が、日本中を巻き込む大乱へと発展しました。応仁の乱は室町幕府の権威を完全に失墜させ、実力がすべての戦国時代への扉を開きました。歴史の大きな転換点は、意外にも個人的な感情のもつれから始まることが多いという事実を、この出来事は教えてくれています。
この記事のポイントは、以下の3つです。
‣トップの無関心が招く組織の混乱
‣私情と権力が交錯する二つの正義
‣破壊の中から生まれた新時代の風
ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。
Q1.応仁の乱は結局、誰が勝ったのですか?
明確な勝者はいません。中心人物の細川勝元と山名宗全が相次いで病死したことで、両軍とも戦う意義を失い、なし崩し的に終結しました。
Q2.足利義政は将軍として無能だったのですか?
政治的リーダーシップには欠けていましたが、文化人としては極めて優秀でした。彼が育てた東山文化は、現在の和風文化の源流となっています。
Q3.なぜ将軍家のもめ事が全国規模になったのですか?
各地の守護大名も家督争いを抱えており、将軍家の争いを利用して自勢力を有利にしようと介入したため、対立が全国に波及しました。
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます
🖋この記事を書いた人🖋
Alex Kei(学び直し歴史ライター)
早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。🖋 この記事はどんな本を参考に?🖋

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