古墳‣飛鳥‣奈良時代を年号で整理|#004~#015

年号まとめはこちら→
年号(時期)出来事名
神代
(神話の時代)
天地開闢と国生み
『古事記』や『日本書紀』に記される世界の始まり。イザナギとイザナミによる「国生み」が行われ、日本の島々(大八洲)が誕生した。その後、イザナギの禊(みそぎ)によってアマテラス(太陽)、ツクヨミ(月)、スサノオ(嵐)の三貴子が誕生する。スサノオの追放やヤマタノオロチ退治を経て、その子孫であるオオクニヌシが地上の支配者となるが、天上の神々への「国譲り」が行われる。
紀元前660年神武天皇即位(伝説)
ニニギノミコトのひ孫にあたる神武天皇が、九州から東征を行い、大和(奈良県)の橿原宮で初代天皇として即位したとされる年。これは現在の皇室が「万世一系」であるとする根拠の物語だが、考古学的には弥生時代早期にあたり、統一国家の証拠はない。
3世紀頃
(200年代)
ヤマト王権の成立
現代の学説では、この頃に奈良盆地の三輪山周辺で初期国家(ヤマト王権)が誕生したと考えられている。箸墓古墳などの巨大な前方後円墳が作られ始め、宗教的権威と軍事力を組み合わせた支配者が現れたことを示している。
4世紀後半
(300年代後半)
朝鮮半島への進出
広開土王碑(391年の記述)や七支刀などの考古学的証拠から、ヤマト王権が朝鮮半島へ軍隊を送ったり、百済と外交を行ったりできるほど強力な組織になっていたことが示されている。
5世紀頃
(400年代)
巨大古墳の造営地移動と勢力拡大
巨大古墳の造営地が奈良から大阪平野(大仙陵古墳/仁徳天皇陵など)へ移動する。これは瀬戸内海を通じた貿易や朝鮮半島への軍事遠征のために海に近い港が必要だったためと考えられる。ヤマト王権は本州西部、四国、九州の一部まで勢力を拡大し、朝鮮半島の伽耶(カヤ)とも友好関係を持った。
512年任那(伽耶)4県の割譲
継体天皇の時代、百済からの要求を受け入れ、朝鮮半島の伽耶地方の4つの地区の支配権を百済に認めた。『日本書紀』では、大伴金村らが百済から賄賂を受け取っていたためと記述されている。
527年磐井の乱
新羅の勢力拡大が九州にも影響を及ぼし、九州北部の有力豪族である磐井が朝廷に対して反乱を起こした。物部麁鹿火(もののべのあらかい)によって鎮圧されたが、これにより朝鮮半島への援軍派遣が遅れ、伽耶の多くが新羅に併合される結果となった。
6世紀中頃
(欽明天皇期)
屯倉の設置と蘇我氏の台頭
欽明天皇は、王室の直轄地である「屯倉(みやけ)」や戸籍制度を導入し、地方からの徴税と同盟関係の強化を図った。この改革の実務には、朝鮮半島と強いコネクションを持つ蘇我稲目(そがのいなめ)が深く関わり、蘇我氏が政治の表舞台で支配力を強めるきっかけとなった。
538年または552年仏教公伝
百済の王から仏像と経典が贈られ、日本の朝廷に公式に仏教が伝来した。蘇我稲目は受容を主張したが、物部氏や中臣氏は「国神の怒りを買う」として反対し、崇仏論争が起きた。直後に疫病が流行したため、最初の仏像は破棄されたが、蘇我氏は仏教との関わりを持ち続けた。
587年丁未の乱(蘇我・物部戦争)
皇位継承を巡り、蘇我馬子と物部守屋の間で内戦が勃発。厩戸皇子(聖徳太子)が四天王に勝利を祈願して参戦し、蘇我氏側が勝利した。これにより物部氏は滅亡し、仏教の国家的な受容と蘇我氏の独裁的な権力基盤が確立された。
603年・604年冠位十二階・十七条憲法の制定
推古天皇の摂政であった聖徳太子や蘇我氏の主導により、家柄ではなく能力で人材を登用する冠位十二階や、儒教的道徳に基づいた十七条憲法が制定された。これらは中央集権化を目指した初期の改革であった。
645年乙巳の変(大化の改新の始まり)
強大になりすぎた蘇我氏を倒すため、中大兄皇子と中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺したクーデター。その後、孝徳天皇が即位し、日本初の元号「大化」が定められた。
646年改新の詔
中国(唐)のモデルに基づき、豪族の私有地を廃止して国司を置くなど、中央集権的な行政システムへの転換を宣言した詔(みことのり)が出された。
663年白村江の戦い
百済復興を支援するために派遣されたヤマト軍が、唐・新羅の連合軍に大敗した戦い。これにより百済は滅亡し、日本は朝鮮半島での足掛かりを失った。
672年壬申の乱
天智天皇の死後、弟の大海人皇子(後の天武天皇)と息子の大友皇子の間で起きた皇位継承戦争。大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位。強力な豪族を排除し、皇親政治による中央集権化を加速させた。
673年〜686年
(天武天皇在位)
天皇権威の神格化
天武天皇と持統天皇は「天皇(Heavenly Sovereign)」という称号を公式化し、自らを「現人神」として位置づけた。また伊勢神宮を最高位の神社とし、皇室の祖先神(アマテラス)崇拝を強化した。
694年藤原京への遷都
持統天皇の下、中国の条坊制(グリッド状の都市計画)を取り入れた日本初の本格的な都、藤原京に遷都した。これまでの頻繁な宮都移動から、定住型の中央政府への転換点となった。
701年頃律令制度の確立
大宝律令の制定により、太政官(行政)と神祇官(祭祀)の二官八省を中心とする行政システムが完成した。また、これ以降「年号」の使用が定着した。
710年平城京遷都(奈良時代の幕開け)
元明天皇の時代、藤原京から平城京(奈良)へ遷都された。唐の長安をモデルにした大規模な都市であり、最盛期には20万人以上の人口を抱えた。
712年・720年記紀の完成
『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)が完成。これらは天皇支配の正統性を主張するために編纂された公式な歴史書であった。
729年長屋王の変
藤原氏に対抗していた皇族の長屋王が、反乱の疑いをかけられ自殺に追い込まれた事件。藤原不比等の息子たち(藤原四兄弟)による権力掌握の一環とされる。
730年代行基の活動と天然痘の流行
僧侶の行基が大衆への布教を行い、政府から弾圧されるも後に協力関係となる。735年から737年にかけて天然痘が大流行し、人口の約3分の1が死亡。藤原四兄弟も全員病死し、政治的空白が生まれた。
740年藤原広嗣の乱
天然痘後に台頭した橘諸兄政権に対し、藤原広嗣が九州で反乱を起こすが、政府軍により鎮圧された。
740年代〜聖武天皇の彷徨と大仏造立
聖武天皇は度重なる災厄や反乱から逃れるため遷都を繰り返した。また、仏教の力で国家を守るため、東大寺の建設と大仏造立を推進した。
764年藤原仲麻呂の乱
孝謙上皇と道鏡の台頭に対し、権力を失いつつあった藤原仲麻呂が反乱を起こすが敗死した。その後、孝謙上皇は称徳天皇として重祚し、道鏡と共に政権を運営した。
770年光仁天皇即位(天武系から天智系へ)
称徳天皇の死後、藤原百川らの画策により、天智天皇の孫である白壁王が光仁天皇として即位した。これにより約1世紀続いた天武・持統系の皇統が途絶え、道鏡は追放された。

↓ 年号とFAQで完璧な学び直しを ↓

古墳‣飛鳥‣奈良時代 FAQまとめ|#004~#015

↓ この時代をおさらいしたい方はこちら ↓

古墳‣飛鳥‣奈良時代
古墳時代から飛鳥・奈良時代までの日本史をやさしく整理するカテゴリーです。大和政権の成立、仏教伝来、律令国家と都の変遷を通して、「古代国家がどう形づくられたか」を物語として学び直したい人向けの入門ガイドです。試験勉強や大人の学び直しにも最適。

[この記事を書いた人]

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。


コメント欄

タイトルとURLをコピーしました