| 年号(時期) | 出来事名 |
|---|---|
| 5世紀頃 | 禅(チャン)の起源 |
| 中国の隋や唐王朝が興る前の混乱期に、独自のアイデンティティを持って現れ始めた 。達磨(Bodhidharma)という僧侶が西方から中国に仏教を広めたことに関連しているとされる 。 | |
| 7世紀 | 善導による浄土教の体系化 |
| 中国の僧侶・善導が『観無量寿経疏』を著し、阿弥陀仏への信仰表明(念仏)だけで浄土へ生まれ変われると説いた 。これが後に法然に大きな影響を与える 。 | |
| 8世紀(700年代) | 禅が中国で主要な宗派となる |
| 禅が中国の宗教の表舞台に登場し、競合する仏教宗派の一つとなった 。 | |
| 9世紀初頭 | 最澄による禅の導入 |
| 天台宗の創始者である最澄が中国で禅を学び、そのアイデアの一部を天台宗の教義に取り入れた 。 | |
| 894年 (寛平6年) | 遣唐使の廃止(縮小) |
| 京都の朝廷が中国への公式使節団を大幅に縮小し、日中仏教界の接触が減少した 。唐王朝はこの13年後に崩壊する 。 | |
| 1000年頃 | 「占城米」の中国導入と日本の人口 |
| 現在のベトナム原産の早稲品種「占城米(チャンパ米)」が宋代の中国に導入され、数世紀後に日本へ伝わり農業生産性を向上させた 。当時の日本の人口は約560万人から700万人と推定される 。 | |
| 1130年代 | 法然の誕生 |
| 美作国(現在の岡山県北部)の地方武士の家に法然が生まれる 。父の死をきっかけに仏教の道へ入る 。 | |
| 1100年代半ば | 栄西・覚阿による禅の再導入 |
| 栄西や覚阿が中国から禅の教えを持ち帰る 。栄西は後に北条政子の後援を得て、鎌倉の武士階級に臨済宗を広めた 。 | |
| 1162年頃 | チンギス・カン(テムジン)の誕生 |
| 現在のモンゴル北部のオノン川のほとりで生まれる 。後にモンゴル帝国を築き上げる 。 | |
| 1185年 | 鎮西奉行の設置 |
| 源頼朝が九州(西国)の防衛と管理のために鎮西奉行という役職を設置 。太宰府に拠点を置いた 。 | |
| 1201年 | 親鸞の六角堂参籠 |
| 親鸞が六角堂で参籠を行い、夢の啓示によって法然のもとへ導かれ、彼の弟子となる 。 | |
| 1207年 | 承元の法難(念仏停止と流罪) |
| 法然の弟子たちのスキャンダル(女性との密通疑惑など)をきっかけに、鎌倉幕府が介入して京都での念仏を禁止 。法然や親鸞を含む弟子たちが流罪となる 。 | |
| 1212年 | 法然の死 |
| 追放令の解除後、京都に戻った法然が死去 。親鸞は京都に戻らず関東地方で布教を続けた 。 | |
| 1215年 | モンゴルによる北京占領 |
| チンギス・カンが現在の北京を占領 。この頃から鎌倉幕府は大陸情勢の情報を得ていた 。 | |
| 1221年 | 承久の乱 |
| 後鳥羽上皇による倒幕の試みが失敗。戦後、幕府による親北条派家族への大規模な土地再分配が行われた 。 | |
| 1222年 | 日蓮の誕生 |
| 安房国(現在の千葉県南部)の武士の家に日蓮が生まれる 。後に法華経を中心とした日蓮宗を興す 。 | |
| 1223年 | 道元の渡宋 |
| 道元が栄西の弟子である明全と共に中国へ渡る 。曹洞宗の師である如浄と出会い5年間学ぶ 。帰国後、越前に永平寺を設立 。 | |
| 1247年 | 宝治合戦 |
| 三浦氏が北条氏に挑戦したが敗北し滅亡。これ以降、幕府に対する深刻な軍事的挑戦は減少した 。 | |
| 1260年 | アイン・ジャールートの戦い |
| マムルーク朝がモンゴル軍に勝利。モンゴル無敵の神話に亀裂が入った出来事の一つ 。 | |
| 1266年 | クビライからの最初の国書(未達) |
| クビライが高麗王を通じて日本へ最初の手紙を送ったが、使者は日本到着時に追い返された 。 | |
| 1268年 | 国書の到来と北条時宗の就任 |
| クビライからの国書が鎌倉に届く 。時を同じくして、17歳の北条時宗が執権に就任 。幕府は返答をせず使者を帰国させた 。また、少弐資能が鎮西奉行に任命される 。 | |
| 1271年 | 三別抄の乱の鎮圧 |
| 高麗におけるモンゴルへの反乱が鎮圧される。これによりモンゴルの日本攻撃計画が可能になった 。 | |
| 1273年 | 襄陽の陥落 |
| 中国南部への進出を阻んでいた要塞都市が陥落し、クビライは日本侵攻のための資金と兵力を解放できた 。 | |
| 1274年 (旧暦10月) | 文永の役(第一次モンゴル侵攻) |
| モンゴル・高麗連合軍が対馬、壱岐を占領し博多湾に到着 。少弐資能や大友頼泰らが防戦したが、モンゴル軍の火薬兵器や集団戦法に苦戦 。最終的に嵐(台風)によりモンゴル軍は撤退 。 | |
| 1275年 | モンゴル使者の処刑 |
| 再度の服従要求に来た使節団を、北条時宗の命令により龍ノ口で斬首した 。同年後半、日本側は高麗への報復侵攻を計画(実行されず) 。 | |
| 1276年 | 石築地(元寇防塁)の建設 |
| 博多湾岸20kmに及ぶ石の防壁が、1年足らずで建設された 。費用は荘園領主らへの課税等で賄われた 。 | |
| 1279年 | 南宋の滅亡(崖山の戦い) |
| 宋の最後の拠点が陥落し、クビライは宋の水軍と兵力を日本侵攻に転用できるようになった 。 | |
| 1281年 (旧暦5月〜7月) | 弘安の役(第二次モンゴル侵攻) |
| 東路軍と江南軍の二手に分かれて侵攻。博多の防塁と日本軍の抵抗(志賀島の戦いなど)により上陸に苦戦 。両軍合流後、鷹島付近で再び巨大な台風に襲われ壊滅した 。 | |
| 1286年 | 九州における女性相続の禁止令 |
| 防衛力確保のため、幕府は九州での女性の土地相続を禁止し、男性への相続を命じた 。武士階級の女性の地位低下の始まりとされる 。 | |
| 1294年 | クビライ・カンの死 |
| クビライの死後、後継者たちは日本侵攻計画に関心を示さず、脅威は事実上去った 。 | |
| 1334年 | 新見荘の記録 |
| 現在の岡山県にある新見荘の記録から、農民のための「新年の宴会」や、市場(市庭)の存在が確認され、農村の組織化や経済活動が垣間見える 。 | |
| 1500年代 (戦国時代) | 女性の戦闘参加の記録と宋銭の継続使用 |
| 1589年の天草(本渡城)の戦いなどで、女性が激しく戦った記録がある 。経済面では、宋銭が依然として主要な交換手段であった 。 | |
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鎌倉時代
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