| 年号(時期) | 出来事名 |
|---|---|
| 900年代 | 醍醐天皇の治世(天皇親政のモデル) |
| 「後醍醐」という名前の由来となった天皇。藤原氏の摂政に支配されず、皇室に権力を再集中させようと試みた数少ない天皇の一人であり、後醍醐天皇の政治的野心のモデルとなった 。 | |
| 1199年以降 (13世紀初頭) | 足利氏の北条氏への接近 |
| 源頼朝の死後の混乱期を経て、足利義兼が北条家と結婚していたことなどから、足利氏は自然と北条氏への同盟へと移行し、親北条派として鎌倉幕府内で地位を確立した 。 | |
| 1221年 | 承久の乱 |
| 後鳥羽上皇が武力で権力を取り戻そうとしたが失敗。以降、京都の朝廷は鎌倉幕府に明確に従属する形となった 。 | |
| 1272年 | 後嵯峨上皇の崩御と継承危機 |
| 後嵯峨上皇が次男の亀山天皇(大覚寺統)を偏愛したまま死去。長男の後深草(持明院統)との間で皇位継承を巡る分裂が生じた 。 | |
| 1285年 | 霜月騒動 |
| 執権北条時頼の死後、有力御家人である安達家が一斉に粛清された事件。北条氏内部の同盟関係の脆さと不安定さを示した 。 | |
| 1287年 | 両統迭立(りょうとうてつりつ)の合意 |
| 鎌倉幕府の仲介により、持明院統(後深草系)と大覚寺統(亀山系)が交互に皇位に就くことで合意した 。 | |
| 1298年 | 津田・奥島の漁業権協定 |
| 近江国の村人が荘園領主から独立して漁業権のルールを定めた事例。荘園制の崩壊と村落(惣村)の自立を示す初期の例 。 | |
| 1300年 | 室町院の遺領紛争 |
| 100以上の荘園を持つ室町院(後深草の娘だが亀山側と結婚)が死去。遺領が亀山側に渡ることになりパワーバランスが崩れそうになったため、幕府が介入し折半させた 。 | |
| 1311年 | 北条高時、執権となる |
| 前執権の死に伴い、9歳の北条高時が後継となった。彼のリーダーシップ欠如は後の幕府崩壊の一因となった 。 | |
| 1318年 | 後醍醐天皇 即位 |
| 花園天皇(持明院統)の譲位を受け、大覚寺統の尊治親王が後醍醐天皇として即位。親政を目指す 。 | |
| 1320年代初頭 | 倒幕計画の開始 |
| 幕府の弱体化を見て取った後醍醐が、比叡山や日野家などの武士を通じて倒幕の準備を開始した 。 | |
| 1324年 | 正中の変 |
| 日野家による倒幕の陰謀が発覚したが、後醍醐は無関係を主張し切り抜けた。またこの年、幕府は悪党鎮圧命令を出したが無視され、権威の失墜が露呈した 。 | |
| 1330年 | 京都の大飢饉と天皇の介入 |
| 飢饉に際し、後醍醐天皇は価格安定化や穀倉開放を命じ、政治への直接介入を行った 。 | |
| 1331年 | 元弘の変と後醍醐の配流 |
| 2度目の倒幕計画が発覚。後醍醐は笠置山へ逃れるが捕縛され、隠岐諸島へ配流された。これに応じ楠木正成が河内で挙兵 。 | |
| 1332年 旧暦11月 | 護良親王の挙兵 |
| 後醍醐の息子、護良親王が吉野で挙兵し、悪党や武士を結集。楠木正成もこれに合流した 。 | |
| 1333年 旧暦1月 | 天王寺の戦い・千早城の戦い |
| 楠木正成が天王寺で幕府軍を破り、その後千早城に籠城。ゲリラ戦術で幕府軍を翻弄し、全国的な反乱を誘発した 。 | |
| 1333年 春 | 足利高氏(尊氏)の寝返りと六波羅探題滅亡 |
| 幕府軍として派遣された足利高氏が丹波で寝返り、京都を攻撃して六波羅探題を攻略。光厳天皇を廃位した 。 | |
| 1333年 旧暦5月 | 鎌倉幕府 滅亡 |
| 新田義貞が上野国で挙兵し鎌倉へ進軍。稲村ヶ崎を突破して都市を攻略し、北条氏を滅ぼした 。 | |
| 1333年〜 | 建武の新政 |
| 後醍醐天皇が復位し、天皇親政を開始。足利高氏は「尊氏」の名と多くの恩賞を受けるが、征夷大将軍の位は護良親王に与えられた 。 | |
| 1334年 | 護良親王の失脚 |
| 尊氏暗殺計画の疑いで護良親王が捕らえられ、鎌倉へ送られた。尊氏と後醍醐の間の緊張が高まる 。 | |
| 1335年 8月 | 中先代の乱と護良親王殺害 |
| 北条氏残党が鎌倉を占領。逃走する足利直義の命により護良親王が殺害された。尊氏は軍を率いて鎌倉を奪還するが、そのまま現地に留まり独自に恩賞を与え始めた 。 | |
| 1335年 後半 | 建武の乱の勃発 |
| 尊氏が新田義貞を討つ許可を求めたが拒否され、逆に後醍醐天皇から「朝敵」と認定された 。 | |
| 1336年 初頭 | 尊氏、九州へ敗走と再起 |
| 一度は京都を占領した尊氏だが、北畠顕家らに敗れ九州へ落ち延びた。撤退中、光厳上皇の院宣を得て、西国の武士(赤松、細川など)に所領安堵を約束し勢力を盛り返した 。 | |
| 1336年 旧暦5月 | 湊川の戦いと楠木正成の死 |
| 再上洛した尊氏軍に対し、後醍醐方は正面衝突を選択。楠木正成は弟と共に自害(七生報国の誓い)し、新田義貞は敗走した 。 | |
| 1336年 | 室町幕府の成立と南北朝時代の開始 |
| 尊氏が京都を制圧し、光明天皇(北朝)を擁立して征夷大将軍となった。後醍醐は吉野へ逃れ南朝を樹立。『建武式目』を制定 。 | |
| 1338年 | 新田義貞の戦死 |
| 足利氏の主要なライバルであった新田義貞が戦死した 。 | |
| 1339年 | 後醍醐天皇 崩御 |
| 吉野にて崩御。後村上天皇が跡を継いだ 。 | |
| 1349年 | 観応の擾乱(かんのうのじょうらん) |
| 足利尊氏(軍事担当)と弟の直義(行政担当)の対立が表面化。執事の高師直の暗殺疑惑などを経て、直義が南朝へ寝返るなど内戦へ発展した 。 | |
| 1355年 | 足利家内紛の鎮静化 |
| 尊氏が支持者内の分裂を鎮圧。しかし、この過程で守護大名への権限委譲(半済令など)が進み、幕府の構造的弱点となった 。 | |
| 1358年 | 足利尊氏 死去 |
| 初代将軍尊氏が死去。南北朝の動乱は未だ継続中であった 。 | |
| 1367年 | 矢野荘の百姓ストライキ |
| 播磨国の百姓が東寺に対して年貢減免を求めて耕作放棄を警告し、要求を勝ち取った 。 | |
| 1368年〜1408年 | 足利義満の将軍在職期 |
| 3代将軍義満の時代、室町幕府は最盛期を迎えた。「花の御所」や「北山殿(後の金閣寺)」を建設し、権威を誇示した 。 | |
| 1392年 | 南北朝合一 |
| 義満の交渉により南朝が北朝に譲る形で合流し、約60年の動乱が終結した 。 | |
| 1394年 | 義満、太政大臣に就任 |
| 武家としての頂点に加え、公家社会の最高位である太政大臣となり権威を強化した 。 | |
| 1400年〜1440年 | 上久世荘の強訴 |
| 東寺領の村人が頻繁に寺院へ押し掛け、減税を要求。10回以上の減税を勝ち取るなど、農民の力が強まった 。 | |
| 1402年 | 義満、日本国王となる |
| 明の永楽帝から冊封を受け「日本国王」の称号を得て、勘合貿易を開始した。形式的な中国への従属を受け入れた 。 | |
| 1441年 | 嘉吉の乱と土一揆 |
| 6代将軍足利義教が赤松満祐に暗殺された。同年、近江などで徳政令を求める大規模な土一揆が発生し、京都へ乱入した 。 | |
| 1449年 | 足利義政、将軍就任 |
| 兄義勝の早世を受け、義政が8代将軍となった。彼は政治よりも芸術に関心を持ち、これが後の混乱の一因となった 。 | |
| 1465年 | 足利義尚の誕生と継承問題 |
| 義政は弟の義視を後継者に指名済みだったが、妻・日野富子に息子(義尚)が生まれたことで継承争いが勃発。細川氏と山名氏が介入し対立が激化した 。 | |
| 1467年 | 応仁の乱 勃発 |
| 畠山氏・斯波氏の家督争いも絡み、京都で大規模な市街戦が開始された。足軽の活躍により都は焦土と化した 。 | |
| 1473年 | 義政の隠居と両将の死 |
| 義政が義尚に将軍職を譲った。同年、西軍の山名宗全、東軍の細川勝元が相次いで病死した 。 | |
| 1477年頃 | 応仁の乱の終息 |
| 約10年の戦いの後、明確な勝敗なく戦闘は自然消滅した。守護たちは地方へ戻り、戦いの舞台は全国へ拡大した 。 | |
| 1480年代 | 東山文化の繁栄 |
| 隠居した義政は東山殿(銀閣寺)を造営し、芸術や文化に没頭した 。 | |
| 1467年以降 | 戦国時代の到来と荘園制の崩壊 |
| 中央権力の失墜により、守護代や国人による下克上が進行。荘園からの年貢は途絶え、既存の経済秩序が破壊された 。 | |
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