室町時代を年号で整理|#043~#051

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年号(時期) 出来事名
900年代 醍醐天皇の治世(天皇親政のモデル)
「後醍醐」という名前の由来となった天皇。藤原氏の摂政に支配されず、皇室に権力を再集中させようと試みた数少ない天皇の一人であり、後醍醐天皇の政治的野心のモデルとなった 。
1199年以降 (13世紀初頭)足利氏の北条氏への接近
源頼朝の死後の混乱期を経て、足利義兼が北条家と結婚していたことなどから、足利氏は自然と北条氏への同盟へと移行し、親北条派として鎌倉幕府内で地位を確立した 。
1221年承久の乱
後鳥羽上皇が武力で権力を取り戻そうとしたが失敗。以降、京都の朝廷は鎌倉幕府に明確に従属する形となった 。
1272年後嵯峨上皇の崩御と継承危機
後嵯峨上皇が次男の亀山天皇(大覚寺統)を偏愛したまま死去。長男の後深草(持明院統)との間で皇位継承を巡る分裂が生じた 。
1285年霜月騒動
執権北条時頼の死後、有力御家人である安達家が一斉に粛清された事件。北条氏内部の同盟関係の脆さと不安定さを示した 。
1287年両統迭立(りょうとうてつりつ)の合意
鎌倉幕府の仲介により、持明院統(後深草系)と大覚寺統(亀山系)が交互に皇位に就くことで合意した 。
1298年津田・奥島の漁業権協定
近江国の村人が荘園領主から独立して漁業権のルールを定めた事例。荘園制の崩壊と村落(惣村)の自立を示す初期の例 。
1300年室町院の遺領紛争
100以上の荘園を持つ室町院(後深草の娘だが亀山側と結婚)が死去。遺領が亀山側に渡ることになりパワーバランスが崩れそうになったため、幕府が介入し折半させた 。
1311年北条高時、執権となる
前執権の死に伴い、9歳の北条高時が後継となった。彼のリーダーシップ欠如は後の幕府崩壊の一因となった 。
1318年後醍醐天皇 即位
花園天皇(持明院統)の譲位を受け、大覚寺統の尊治親王が後醍醐天皇として即位。親政を目指す 。
1320年代初頭倒幕計画の開始
幕府の弱体化を見て取った後醍醐が、比叡山や日野家などの武士を通じて倒幕の準備を開始した 。
1324年正中の変
日野家による倒幕の陰謀が発覚したが、後醍醐は無関係を主張し切り抜けた。またこの年、幕府は悪党鎮圧命令を出したが無視され、権威の失墜が露呈した 。
1330年京都の大飢饉と天皇の介入
飢饉に際し、後醍醐天皇は価格安定化や穀倉開放を命じ、政治への直接介入を行った 。
1331年元弘の変と後醍醐の配流
2度目の倒幕計画が発覚。後醍醐は笠置山へ逃れるが捕縛され、隠岐諸島へ配流された。これに応じ楠木正成が河内で挙兵 。
1332年 旧暦11月護良親王の挙兵
後醍醐の息子、護良親王が吉野で挙兵し、悪党や武士を結集。楠木正成もこれに合流した 。
1333年 旧暦1月天王寺の戦い・千早城の戦い
楠木正成が天王寺で幕府軍を破り、その後千早城に籠城。ゲリラ戦術で幕府軍を翻弄し、全国的な反乱を誘発した 。
1333年 春足利高氏(尊氏)の寝返りと六波羅探題滅亡
幕府軍として派遣された足利高氏が丹波で寝返り、京都を攻撃して六波羅探題を攻略。光厳天皇を廃位した 。
1333年 旧暦5月鎌倉幕府 滅亡
新田義貞が上野国で挙兵し鎌倉へ進軍。稲村ヶ崎を突破して都市を攻略し、北条氏を滅ぼした 。
1333年〜建武の新政
後醍醐天皇が復位し、天皇親政を開始。足利高氏は「尊氏」の名と多くの恩賞を受けるが、征夷大将軍の位は護良親王に与えられた 。
1334年護良親王の失脚
尊氏暗殺計画の疑いで護良親王が捕らえられ、鎌倉へ送られた。尊氏と後醍醐の間の緊張が高まる 。
1335年 8月中先代の乱と護良親王殺害
北条氏残党が鎌倉を占領。逃走する足利直義の命により護良親王が殺害された。尊氏は軍を率いて鎌倉を奪還するが、そのまま現地に留まり独自に恩賞を与え始めた 。
1335年 後半建武の乱の勃発
尊氏が新田義貞を討つ許可を求めたが拒否され、逆に後醍醐天皇から「朝敵」と認定された 。
1336年 初頭尊氏、九州へ敗走と再起
一度は京都を占領した尊氏だが、北畠顕家らに敗れ九州へ落ち延びた。撤退中、光厳上皇の院宣を得て、西国の武士(赤松、細川など)に所領安堵を約束し勢力を盛り返した 。
1336年 旧暦5月湊川の戦いと楠木正成の死
再上洛した尊氏軍に対し、後醍醐方は正面衝突を選択。楠木正成は弟と共に自害(七生報国の誓い)し、新田義貞は敗走した 。
1336年室町幕府の成立と南北朝時代の開始
尊氏が京都を制圧し、光明天皇(北朝)を擁立して征夷大将軍となった。後醍醐は吉野へ逃れ南朝を樹立。『建武式目』を制定 。
1338年新田義貞の戦死
足利氏の主要なライバルであった新田義貞が戦死した 。
1339年後醍醐天皇 崩御
吉野にて崩御。後村上天皇が跡を継いだ 。
1349年観応の擾乱(かんのうのじょうらん)
足利尊氏(軍事担当)と弟の直義(行政担当)の対立が表面化。執事の高師直の暗殺疑惑などを経て、直義が南朝へ寝返るなど内戦へ発展した 。
1355年足利家内紛の鎮静化
尊氏が支持者内の分裂を鎮圧。しかし、この過程で守護大名への権限委譲(半済令など)が進み、幕府の構造的弱点となった 。
1358年足利尊氏 死去
初代将軍尊氏が死去。南北朝の動乱は未だ継続中であった 。
1367年矢野荘の百姓ストライキ
播磨国の百姓が東寺に対して年貢減免を求めて耕作放棄を警告し、要求を勝ち取った 。
1368年〜1408年足利義満の将軍在職期
3代将軍義満の時代、室町幕府は最盛期を迎えた。「花の御所」や「北山殿(後の金閣寺)」を建設し、権威を誇示した 。
1392年南北朝合一
義満の交渉により南朝が北朝に譲る形で合流し、約60年の動乱が終結した 。
1394年義満、太政大臣に就任
武家としての頂点に加え、公家社会の最高位である太政大臣となり権威を強化した 。
1400年〜1440年上久世荘の強訴
東寺領の村人が頻繁に寺院へ押し掛け、減税を要求。10回以上の減税を勝ち取るなど、農民の力が強まった 。
1402年義満、日本国王となる
明の永楽帝から冊封を受け「日本国王」の称号を得て、勘合貿易を開始した。形式的な中国への従属を受け入れた 。
1441年嘉吉の乱と土一揆
6代将軍足利義教が赤松満祐に暗殺された。同年、近江などで徳政令を求める大規模な土一揆が発生し、京都へ乱入した 。
1449年足利義政、将軍就任
兄義勝の早世を受け、義政が8代将軍となった。彼は政治よりも芸術に関心を持ち、これが後の混乱の一因となった 。
1465年足利義尚の誕生と継承問題
義政は弟の義視を後継者に指名済みだったが、妻・日野富子に息子(義尚)が生まれたことで継承争いが勃発。細川氏と山名氏が介入し対立が激化した 。
1467年応仁の乱 勃発
畠山氏・斯波氏の家督争いも絡み、京都で大規模な市街戦が開始された。足軽の活躍により都は焦土と化した 。
1473年義政の隠居と両将の死
義政が義尚に将軍職を譲った。同年、西軍の山名宗全、東軍の細川勝元が相次いで病死した 。
1477年頃応仁の乱の終息
約10年の戦いの後、明確な勝敗なく戦闘は自然消滅した。守護たちは地方へ戻り、戦いの舞台は全国へ拡大した 。
1480年代東山文化の繁栄
隠居した義政は東山殿(銀閣寺)を造営し、芸術や文化に没頭した 。
1467年以降戦国時代の到来と荘園制の崩壊
中央権力の失墜により、守護代や国人による下克上が進行。荘園からの年貢は途絶え、既存の経済秩序が破壊された 。

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室町時代の政治・社会・文化を、足利幕府の成立から戦国時代の入口まで物語としてたどるカテゴリーです。南北朝の動乱、応仁の乱、禅や茶の湯・町衆文化を通して、「中世がどう揺らぎ、戦国へつながったのか」を学び直したい人向けの入門ガイドです。

[この記事を書いた人]

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。


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