| 年号(時期) | 出来事名 |
|---|---|
| 1184年 | 大江広元の鎌倉招致 |
| 京都の貴族であった大江広元が源頼朝に招かれ、鎌倉幕府の行政機関設立に尽力する。彼の子孫である季光が後に「毛利」姓を名乗り、毛利氏の祖となる 。 | |
| 1189年頃 (12世紀末) | 伊達氏の成立 |
| 源頼朝の家臣・中村(伊達)朝宗が、奥州合戦の功績により陸奥国伊達郡を与えられ、「伊達」姓を名乗り始める 。 | |
| 1330年代 | 鎌倉幕府崩壊と南北朝動乱 |
| 新田氏や山名氏、細川氏などの武士団の運命が分かれる。山名氏は南朝から北朝へ寝返るなど損得勘定で動き勢力を拡大 。細川氏は足利尊氏側につき、後に「管領」の家柄となる 。 | |
| 1391年 | 明徳の乱 |
| 「六分の一殿」と呼ばれるほど強大化した山名氏清に対し、将軍足利義満が挑発を行い討伐。山名氏は一時衰退する 。 | |
| 1441年 | 嘉吉の乱 |
| 将軍足利義教が赤松満祐に暗殺される。山名宗全が赤松氏を討伐し、山名家の勢力を再興させる 。 | |
| 1467年〜1477年 | 応仁の乱 |
| 将軍継承問題(義視 vs 義尚)をきっかけに、細川勝元と山名宗全が対立し全面戦争へ。京都が荒廃し、戦国時代の幕開けとなる 。両者とも1473年に病死し、決着がつかぬまま終結 。 | |
| 1485年〜1493年頃 | 国一揆と山城の国一揆 |
| 山城国(京都南部)で、国人や農民が協力して守護大名の軍勢を追い出し、自治を行った。これは大名支配に対抗する「一揆」の代表例である 。 | |
| 1493年 | 明応の政変 |
| 細川政元がクーデターを起こし、将軍足利義材を追放して義澄を擁立。幕府の実権を完全に掌握する 。 | |
| 1507年 | 永正の錯乱(細川政元の暗殺) |
| 細川政元が養子の一人(澄之)を支持する家臣に暗殺される。以降、細川家は3人の養子(澄元、澄之、高国)による泥沼の後継者争いに突入し衰退する 。 | |
| 1523年 | 毛利元就の家督相続/寧波の乱 |
| 毛利元就が26歳で毛利家の当主となる 。中国(明)の寧波で、大内氏と細川氏の貿易使節団同士が武力衝突し、明が日本との貿易を停止する原因となる 。 | |
| 1543年 | 鉄砲伝来/豊臣秀吉の父死去(説) |
| ポルトガル人が種子島に漂着し、火縄銃(鉄砲)が伝わる 。豊臣秀吉の父(弥右衛門)が戦死したとされる年でもある(後世の創作説あり) 。 | |
| 1549年 | キリスト教伝来 |
| イエズス会の宣教師(ザビエルら)が日本に到着。貿易の利益とセットで布教を行い、九州の大名(大村純忠など)が入信し始める 。 | |
| 1551年 | 大寧寺の変/織田信秀の死 |
| 大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反により自害し、大内氏が事実上滅亡 。尾張では織田信長の父、信秀が死去し、信長が17歳で家督を継ぐ 。 | |
| 1555年 | 厳島の戦い |
| 毛利元就が陶晴賢の大軍を厳島に誘き寄せ、村上水軍と連携して奇襲攻撃で撃破。中国地方の覇権を確立する 。 | |
| 1560年 | 桶狭間の戦い |
| 今川義元が2〜4万の大軍で尾張へ侵攻。織田信長は少数の兵で雨に乗じた奇襲を行い義元を討ち取る 。これ機に松平元康(後の家康)が今川から独立し信長と同盟を結ぶ 。 | |
| 1567年 | 稲葉山城攻略/家康への改名 |
| 信長が美濃の斎藤氏を滅ぼし稲葉山城を攻略、「岐阜城」と改名して「天下布武」の使用を開始 。松平元康は「徳川家康」に改名する 。 | |
| 1568年 | 信長の上洛 |
| 足利義昭を奉じて信長が京都へ入る。三好・松永勢力を追い出し、義昭を将軍に就けるが、信長自身は幕府の役職を辞退する 。 | |
| 1570年〜1573年 | 信長包囲網との戦い |
| 信長に反発する朝倉氏、浅井氏(信長の義弟・長政)、比叡山延暦寺、一向一揆などが反信長包囲網を形成。信長は比叡山焼き討ち(1571年)や浅井・朝倉の滅亡(1573年)でこれらを各個撃破する 。 | |
| 1573年 | 室町幕府滅亡 |
| 信長に反旗を翻した将軍足利義昭が京都から追放され、事実上室町幕府が滅亡する 。 | |
| 1578年〜1580年代 | 伊達政宗の台頭 |
| 伊達輝宗が隠居し、息子の政宗が家督を継ぐ(1584年)。政宗は父の死(二本松義継による拉致事件)を経て近隣氏族に対し過激な軍事行動(小手森城の撫で斬り等)を展開し、奥州の覇者となる 。 | |
| 1582年 | 本能寺の変/清洲会議 |
| 明智光秀の謀反により織田信長が本能寺で自害 。羽柴秀吉が「中国大返し」を行い山崎の戦いで光秀を討つ 。清洲会議にて、秀吉は信長の孫・三法師を後継者に擁立し、織田家中の主導権を握る 。 | |
| 1583年 | 賤ヶ岳の戦い |
| 秀吉と対立した柴田勝家(お市の方と再婚)が激突。「美濃大返し」による秀吉の迅速な行軍で勝家は敗北し、北ノ庄城で妻と共に自害する 。 | |
| 1584年 | 小牧・長久手の戦い |
| 織田信雄と結んだ徳川家康が秀吉と対立。戦闘では家康が勝利するが、秀吉の外交戦略により講和し、家康は秀吉に臣従する形となる 。 | |
| 1585年〜1586年 | 秀吉の関白就任/四国征伐 |
| 秀吉は長宗我部氏を降し四国を平定 。朝廷から関白・太政大臣に任じられ、「豊臣」姓を賜る 。 | |
| 1587年 | バテレン追放令 |
| 九州平定後、秀吉はキリスト教宣教師の追放を命じるが、南蛮貿易の利益維持のため厳格な執行はされなかった 。 | |
| 1590年 | 小田原征伐(天下統一) |
| 北条氏を滅ぼし、秀吉による天下統一が完了する。これに伴い徳川家康は関東へ移封(国替え)され、江戸を拠点とする 。 | |
| 1592年 | 文禄の役(朝鮮出兵開始)/秀頼誕生 |
| 秀吉の命により大陸(明・朝鮮)征服を目指した侵攻が始まる 。同年、側室の淀殿(浅井長政とお市の娘)との間に息子・秀頼が誕生する 。 | |
| 1595年 | 豊臣秀次事件 |
| 秀吉の甥で関白を譲られていた豊臣秀次が謀反の疑いで切腹させられる。秀頼への権力集中を図った粛清とされる 。 | |
| 1596年〜1597年 | サン・フェリペ号事件と二十六聖人の殉教 |
| 漂着したスペイン船長の失言(宣教師は征服の先兵等)に激怒した秀吉が、フランシスコ会修道士や信徒ら26名を処刑し、キリスト教弾圧を強化する 。 | |
| 1598年 | 豊臣秀吉の死 |
| 秀吉が61歳で病没。朝鮮からの撤兵が決定される。幼い秀頼を補佐するため「五大老」(家康、前田利家ら)による合議制が敷かれる 。 | |
| 1599年 | 前田利家の死 |
| 家康の唯一の対抗馬であった前田利家が死去し、五大老のパワーバランスが崩れ、家康への権力集中が加速する 。 | |
| 1600年 | 関ヶ原の戦い |
| 家康率いる東軍と、石田三成らが組織した西軍が激突。小早川秀秋らの裏切りにより東軍が勝利し、家康が覇権を握る 。石田三成は処刑される 。 | |
| 1603年 | 江戸幕府開府 |
| 徳川家康が征夷大将軍に任命される。豊臣秀頼と千姫(家康の孫)の結婚が行われるが、権力の二重構造は解消されなかった 。 | |
| 1614年 | 方広寺鐘銘事件 |
| 秀頼が再建した方広寺の鐘の銘文「国家安康」が家康の名を分断し呪うものだと徳川方が言いがかりをつけ、豊臣氏攻撃の口実とする 。 | |
| 1615年 | 大坂夏の陣(豊臣氏滅亡) |
| 冬の陣・夏の陣を経て大坂城が落城。豊臣秀頼と淀殿は自害し、徳川氏による支配体制が盤石となる 。 | |
| 1616年 | 徳川家康の死 |
| 戦国乱世を終わらせた家康が73歳で死去。以降、2世紀半にわたる平和な時代(江戸時代)が続く 。 | |
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