明治以降の藩閥政治・政党政治・軍部政治を流れで理解|5分de探究⑪

日本史一気読み

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【5分de探究】我田引鉄から軍部政治まで日本はなぜレールを誤ったのか?

明治以降の日本は、藩閥政治・政党政治・軍部政治という三つの段階を経ながら、近代国家を模索しました。この記事では、その流れを外交・戦争・恐慌という軸でたどります。

不平等条約の改正をめざした法治国家づくり、日清・日露戦争での列強との駆け引き、第一次世界大戦の特需と昭和恐慌の連鎖、そして政党政治から軍部政治への転換までを一気に整理し、今の政治不信を読み解くヒントにします。

明治以降の日本は、武力で政権を奪い合う時代を終えたあとも、静かな安定に向かったわけではありませんでした。藩閥政治から政党政治、さらには軍部政治へと、権力の担い手が何度も入れ替わり、そのたびに国の針路が大きく揺れ動びました。
本記事では、「藩閥政治・政党政治・軍部政治」という三つのキーワードと、日清・日露戦争、第一次世界大戦、昭和恐慌という出来事を一本の線で結びます。そうすることで、過去の失敗を責めるのではなく、変化のストレスが大きいときに社会がどの方向に流れやすいのかを冷静に考えられる視点を身につけます。

この記事はどんな本を参考にしてる?

藩閥政治から始まる法治国家づくり

藩閥政治:特定の藩出身の政治家グループが政府中枢を独占する政治形態。
法治国家:権力者ではなく法律が政治のルールとして最上位に置かれる国家。
不平等条約:治外法権や関税自主権の欠如など、一方的に不利な条件を課された国際条約。

明治政府は、まず不平等条約を改正し、列強と対等な関係に近づくことを大きな目標に掲げました。そのためには、欧米と同じように法治国家として認められる必要があると考えました。そこで、初期の政府は薩摩や長州といった出身地でまとまる藩閥政治の色合いを強く残しながらも、ヨーロッパに学びに行き、ドイツなどの憲法を参考に大日本帝国憲法を作りました。憲法は天皇が国民に与える形式をとり、君主の権限を大きくした一方で、法律に基づく統治の枠組みを整えようとしました。

しかし、藩閥政治は、どうしても出身藩による人事や方針の偏りを生みやすい政治形態でした。藩閥の側から見れば国家の一体化を急ぐために結束していたとも言えますが、外側から見ると「特定グループだけが得をしている」と受け取られがちでした。現代でも、同じ学校や同じ会社出身の人だけが要職を占める組織が批判されることがあります。藩閥政治を知ることで、私たちは「誰がルールを作り、そのルールが本当に法治国家として公平に機能しているのか」を意識して見る癖をつけられます。

つまりどういうこと?
明治初期の日本は、列強からの圧力にさらされながら不平等条約を改正するために、急いで法治国家の体裁を整えようとしました。その原動力となったのが、薩摩や長州などの出身者が政府を固めた藩閥政治です。この仕組みは、スピード重視では有効でも、長く続くと「身内の政治」として不満を呼びます。仕事や地域の組織でも、特定グループだけで物事を決めると、同じような不信が生じます。歴史の事例を知ると、ルールづくりの場にどれだけ多様な声を入れるかが、長期的な信頼につながると理解しやすくなります。

列強との外交戦と日清・日露戦争

日清戦争:朝鮮半島をめぐり、日本と清が対立して起こった戦争。
日露戦争:東アジアでの勢力拡大をめぐり、日本とロシアが争った戦争。
南下政策:寒冷な地域から温暖な地域へと進出し、不凍港の獲得を狙うロシアの対外政策。

近代化を進める日本の前に、大きく立ちはだかったのがロシアの南下政策でした。ロシアは凍らない港を求めて南へ進出し、その通り道に朝鮮半島がありました。日本にとって、朝鮮半島がロシアに抑えられることは安全保障上の大問題でした。そこで、日本は朝鮮半島をめぐって清と争う日清戦争を戦い、イギリスの支援も受けながら勝利を収めます。さらに、その後にはロシアと直接ぶつかる日露戦争が起こり、日本は日英同盟を背景に、ぎりぎりの勝利をつかみました。

しかし、これらの戦争の展開をよく見ると、日本一国の力だけで道が開けたわけではありません。イギリスをはじめとする列強の思惑が絡み合い、各国がロシアの南下政策をどう抑えるかという大きなゲームの中で、日本はカードの一枚として動きました。日清戦争、日露戦争、そしてその後の日韓併合までを一つの流れとして見ると、「国益」を掲げる行動が、周辺の地域にどのような長期的な影響を残すのかも見えてきます。これは、現代の国際ニュースを読むときにも、当事国の論理だけでなく、周囲の国々の視点を想像する手がかりになります。

つまりどういうこと?
日清戦争日露戦争は、日本が列強に並ぼうとした物語のクライマックスのように語られがちです。しかし、その裏側にはロシアの南下政策を警戒するイギリスなどの思惑があり、日本は「どちらの側につくか」「どこまで踏み込むか」を常に選ばされていました。国の安全保障は、自国だけで完結せず、周囲のパワーバランスの中で成り立ちます。身近なレベルでも、自分の部署や地域だけを見て判断すると、全体のバランスを崩してしまうことがあります。歴史を学ぶことで、短期的な勝ち負けだけでなく、長期的な関係性や記憶に目を向ける視点を養うことができます。

特需と恐慌が軍部政治を呼び込む

特需:戦争などの特殊な状況で一時的に生じる異常な需要。
恐慌:株価や物価の急落、金融不安などが連鎖して起こる深刻な経済危機。
軍部政治:軍人や軍部の意向が内閣や政党より優先される政治状態。

第一次世界大戦が始まると、日本は日英同盟の関係から戦勝国側に立ちましたが、主戦場はヨーロッパだったため、国内は直接の戦場になりませんでした。その結果、日本はアジア市場での供給役を担い、ヨーロッパから商品が届かないあいだに大きな特需を得ました。しかし、この好景気は長く続きません。戦争が終わると、ヨーロッパの企業が市場に戻り、売れ残りや価格下落から恐慌が起こります。さらに、震災、金融不安、世界的な大不況が立て続けに襲い、いわゆる昭和恐慌へとつながりました。

この連鎖の中で、ようやく芽生えつつあった政党政治は、「景気を守れなかった」「内輪もめばかりしている」と強く批判されました。なかでも、自分の選挙区に有利な鉄道を引こうとする我田引鉄のような姿勢は、国全体を見ていない象徴として受け止められました。こうした不信の中で、「政党ではなく軍隊こそが日本を立て直す」という期待が高まり、軍部政治が力を増していきます。国民は、政治家の言葉よりも、軍服と号令のわかりやすさに頼ろうとしたのかもしれません。

つまりどういうこと?
好景気という特需は、一時的には暮らしを楽にしますが、その反動として大きな恐慌を招くことがあります。昭和恐慌のとき、日本では政党政治への不信が強まり、「自分の利益だけを追う我田引鉄的な政治家」に対する怒りが、軍部への期待へと裏返りました。その結果、軍部政治が進み、対外的な強硬策が取りやすくなっていきます。現代でも、景気悪化や災害の後には「強いリーダー」を求める声が高まりがちです。歴史を知っておくことで、そのような空気に流され過ぎず、冷静に政策の中身を見ようとする姿勢を保ちやすくなります。

まとめ:変化のストレスが政治を歪める

明治以降の日本は、藩閥政治から政党政治、そして軍部政治へと、わずかな期間で政治のかたちを大きく変えました。その背景には、近代国家として列強と肩を並べたいという焦り、恐慌の連鎖による生活不安、そして「誰ならこの状況を変えてくれるのか」を巡るパワーバランスの変化がありました。世論が政党から軍部へと傾いたとき、人びとは短期的な安心や強さを期待しましたが、その先にどのような帰結が待っているかを十分に想像できたわけではありません。歴史をたどることで、私たちは世論の動きと権力の関係を振り返り、今の社会で同じパターンが起きていないかを問い直すことができます。

景気の波に乗る前に特需の反動を意識する
不信が高まるときこそパワーバランスの変化を疑う
世論の熱気だけでなく仕組みの持続性を点検する

以上が本記事から得られる学びです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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