【豊臣兄弟!特集】長島一向一揆|秀長はなぜ騙し討ちした?

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【豊臣兄弟!特集】長島一向一揆|秀長はなぜ騙し討ちしたか
温厚で知られる秀長が、なぜ長島一向一揆では騙し討ちをしたのでしょうか?


信長の凄まじい復讐心と戦国の厳しい現実、そして虐殺の裏に隠された秀長の葛藤と真実を”5分”で紐解きます。

▼ この記事でわかること

Q. 豊臣秀長は、長島一向一揆でなぜ騙し討ちしたか?


信長の弟を奪われた復讐心と、一向宗を根切りにする厳命に従い、降伏した城兵を騙し討ちで殲滅しました。

織田信長の天下布武を阻んだ最大の敵、長島一向一揆。その殲滅戦において、豊臣秀吉の弟である秀長は重要な役割を果たしました。天正2年の第3次侵攻に焦点を当て、なぜ秀長たちが降伏した一揆勢を騙し討ちにするに至ったのか。


信長の弟を奪われた復讐心兵糧攻めの凄惨さ、そして後の名君である大和宰相としての秀長の姿とは矛盾するような虐殺の事実に迫り、戦国の非情さと秀長の苦悩を紐解きます。

長島一向一揆と秀長の騙し討ち

願証寺:長島一向一揆の拠点で、織田信長に対抗し激しく抵抗した伊勢国にある浄土真宗の有力寺院。
小木江城:信長の弟、信興が守っていたが、一揆勢の猛攻を受けて落城し自害に追い込まれた尾張国の城。
羽柴秀長:兄の秀吉を補佐し、調略や実務だけでなく困難な戦場でも織田軍団を支え続けた豊臣家の副将。

戦国時代、最強と恐れられた織田信長ですが、実は農民や僧侶による「一向一揆」には何度も苦汁をなめさせられました。


特に伊勢の願証寺を中心とする長島一向一揆は、信長にとって悪夢のような存在でした。元亀元年(1570年)、一揆勢は織田領へ侵攻し、信長が信頼を寄せていた弟・信興がいる小木江城を包囲したのです。


救援も間に合わず信興は自害し、信長の怒りは頂点に達しました。「絶対に許さない」という復讐の炎が燃え上がる中、その鎮圧部隊として兄・秀吉と共に投入されたのが羽柴秀長です。


この時、秀長はまだ若き武将でしたが、兄の手足となり、感情的な殺戮合戦と化した泥沼の戦場で、極めて困難な舵取りを迫られることになります。

🔍 つまりどういうこと?🔍

長島一向一揆は、信長の最愛の弟を死に追いやった因縁の敵でした。その報復戦に参加した秀長は、単なる領土争いを超えた「憎悪の連鎖」の只中に身を置くことになります。ここでの凄惨な経験と兄と共に手を汚した記憶が、後の彼の運命や統治者としてのあり方を大きく左右することになるのです。


城を包囲する織田軍の様子


── では、実際の戦いの様子を見に行きましょう。

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凄惨な兵糧攻めと降伏の裏側

第3次侵攻:天正2年、信長が過去の雪辱を果たすため大軍を動員して長島一向一揆の完全鎮圧を図った総力戦。
兵糧攻め:敵の補給路を完全に断ち、城内の食料を枯渇させて、敵兵を餓死や無条件降伏へと追い込む戦術。
大鳥居城:一揆勢の重要拠点であったが、秀長らが包囲して激しい籠城戦の末に悲劇的な結末の舞台となった城。

天正2年、信長は過去の失敗を教訓として、陸と海から完全に封鎖する第3次侵攻を開始しました。この時、秀吉と秀長の兄弟が担当したのが、一揆勢の重要拠点である大鳥居城の攻略です。


力攻めでは味方の被害も大きいと判断した織田軍は、周囲を頑丈な柵で囲い込み、一切の出入りを禁じる徹底的かつ冷酷な兵糧攻めを行いました。


飢えに耐えかねた大鳥居城の一揆勢は、ついに降伏を申し出ます。「城を明け渡すので命だけは助けてほしい」と。秀長らはこれを受け入れ、城兵が退去し始めました。


しかし、ここで悲劇が起きます。織田軍は約束を反故にし、無防備に出てきた人々を一斉に攻撃したのです。男女を問わず斬り捨てるこの行為は、まさに騙し討ちでした。

🔍 つまりどういうこと?🔍

和睦と見せかけて敵を誘い出し殲滅するという残酷な手段は、信長による根切りの命令によるものでした。秀長は現場指揮官として、自身の良心と絶対的な主君の命令との間で板挟みになりながらも、非情な決断を実行せざるを得なかったのです。これは戦国の世の厳しさを象徴する出来事でした。


炎に包まれる長島の砦


── 次に、この悲劇が秀長に何を残したか考えましょう。

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虐殺の果てに見る秀長の苦悩

信長公記:信長の側近である太田牛一が記したもので、織田家の歴史や合戦の様子を詳細に伝える史料。
根切り:敵対する勢力を将来にわたって根絶やしにするため、男女や子供を一切問わずに全員皆殺しにする方針。
大和宰相:後に大和国を治めることになり、温厚な人柄と優れた政治手腕で多くの人に慕われた秀長の異名。

当時の様子は『信長公記』にも克明に記されています。最終的に2万人もの人々が焼き殺され、川は死体で埋め尽くされました。


この根切りという方針は、宗教勢力の結束力を恐れた信長の恐怖心の裏返しでもあります。しかし、実行犯となった秀長の心境はどうだったのでしょうか。彼は決して殺戮を好むような人物ではありませんでした。


興味深いことに、後の秀長は大和宰相と呼ばれ、領内の寺社を保護し、民政に力を注ぐ名君として知られるようになります。


長島での地獄のような光景を見たからこそ、彼は力による制圧の虚しさを誰よりも痛感していたのかもしれません。汚れ役を引き受けた過去が、彼を慈悲深い統治者へと成長させたとも考えられるのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

信長の命令とはいえ、大量虐殺に関与した事実は消えません。しかし、その罪悪感や葛藤こそが、後の平和的な統治スタイルにつながった可能性があります。秀長が見せた晩年の優しさとは、戦場の残酷さを知り尽くし、人の痛みを理解したがゆえに生まれた、悲しみへの裏返しだったのかもしれません


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「教養として、色々学んでおきたいけど時間ない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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結:秀長の影と光を知る

長島一向一揆での騙し討ちは、信長の厳命と戦国の論理が生んだ悲劇でした。しかし、その修羅場をくぐり抜けた経験が、秀長を単なる武人から、民の痛みがわかる政治家へと変えたのかもしれません。歴史の闇を知ることで、彼の光の部分がより鮮明に見えてきます。
この記事のポイントは、以下の3つです。

信長の弟の死が招いた復讐戦
和睦を破る非情な騙し討ち
惨劇が育んだ大和宰相の慈悲

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.長島一向一揆はいつ頃、どこで起きたのですか?

元亀元年(1570年)から天正2年(1574年)にかけて、現在の三重県桑名市周辺である長島地域を中心に激しい戦闘が繰り広げられました。

Q2.なぜ「騙し討ち」のような卑怯な手を使ったのですか?

信長の弟を殺された報復に加え、強固な団結力を持つ一向宗を完全に根絶やしにする根切りの方針を信長が決定していたためです。

Q3.この戦いから、現代の私たちは何を学べますか?

組織の論理と個人の良心の葛藤を学ぶことができます。また、過去の過ちや失敗を糧にして、その後の行動を変えていく大切さを教えてくれます。

各時代の FAQ は、FAQまとめページ で一気見できます。是非ご活用ください。
[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
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