【豊臣兄弟!特集】千石堀城の戦い|1日で落城させた秀長の猛攻

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【豊臣兄弟!特集】千石堀城の戦い|1日で落城させた秀長の猛攻
温厚な秀長が鬼と化して挑んだ、千石堀城の戦いとは一体何か?


最強の鉄砲傭兵が守る難攻不落の要塞を、たった一日で攻略。冷徹な采配と衝撃の結末を”5分”で紐解きます。

▼ この記事でわかること

Q. 千石堀城の戦いで秀長はなぜ一日で勝利できたのか?


10万の大軍で城を完全包囲火攻めを敢行。逃げ場を失った守備兵を殲滅し、わずか一日で落城させました。

豊臣秀長といえば温厚な調整役のイメージが強いですが、千石堀城の戦いでは冷徹な軍事司令官としての顔を見せつけました。1585年の紀州攻めで、信長をも苦しめた最強の鉄砲傭兵集団が守る要塞を、秀長はわずか1日で攻略します。

この凄惨かつ圧倒的な勝利が、その後の根来・雑賀衆の降伏と秀吉の天下統一を決定づけました。兄の秀吉を支え続けたもう一人の天下人が発揮した、戦慄の軍事的手腕冷徹な実像に迫ります。

天下統一を阻む紀州の武装勢力

紀州征伐:天正13年、秀吉が紀伊半島の武装勢力を平定するために行った、大規模な軍事侵攻作戦。
根来・雑賀衆高い鉄砲技術を持ち、傭兵として各地の戦国大名に協力した紀伊国独自の自治勢力。
副将・秀長:総大将の秀次を補佐し、実質的な現場指揮官として10万の大軍を統率した秀吉の弟。

温厚な補佐役と思われがちな秀長ですが、この時は違いました。信長亡き後も独立を保ち、秀吉の大坂城を脅かす紀州の武装勢力は、天下統一の最後の障壁でした。

彼らを屈服させ、背後の安全を確保することこそが、この戦いの最大の目的だったのです。大坂ののど元に刃を突きつける敵を、秀長は見過ごすことはできませんでした。




かつて織田信長ですら手を焼いた根来や雑賀衆に対し、秀吉は甥の秀次を総大将に据えつつ、実質的な指揮権を秀長に託しました。


経験の浅い若手を看板にし、実務能力の高いベテランが現場を回す。この盤石な布陣に、秀吉の本気度が表れています。困難なプロジェクトほど、最も信頼できる右腕を充てるという定石通りの配置です。

🔍 つまりどういうこと?🔍

秀吉にとって、紀州勢力の存在は決して許容できない最大のリスクでした。そこで、過去最強の敵を確実に排除するために選ばれたのが、最も信頼できる実弟の秀長です。彼に10万もの大軍を任せた事実は、この戦いが絶対に負けられない決戦だったことを如実に物語っています。


難攻不落の城を攻めるイメージ


── 難攻不落の城をどう攻めるか見ましょう。

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最強の鉄砲集団が守る千石堀城

千石堀城:現在の大阪府貝塚市に位置し、根来衆が和泉国における防衛拠点として築いた山城。
鉄砲隊:城内に数千丁とも言われる鉄砲を持ち込み、織田軍さえ退けた強力な射撃能力を持つ兵隊。
包囲網:高山右近や中川秀政らが北や東から迫り、逃げ場をなくして圧力をかけた軍事配置のこと。

いざ進軍を開始した秀長軍の前に立ちはだかったのが、和泉国を守る要衝の千石堀城です。ここは単なる砦ではなく、堀と土塁を巧みに組み合わせ、数千丁の鉄砲を配備した強力な要塞でした。

根来寺への侵入を防ぐこのをこじ開けない限り、本拠地へは進めません。まさに、攻略するために避けては通れないゲートキーパーだったのです。




秀長は力押しだけでなく、的確な配置で城を追い詰めました。高山右近や中川秀政、そして後に名将として知られる大谷吉継らを配置し、城を完全に包囲します。

逃げ場を奪い、精神的な圧力をかけながら弱点を探る。敵の射程外からじわじわと締め上げる、冷静沈着な秀長の戦術眼がいかんなく発揮された瞬間と言えるでしょう。

🔍 つまりどういうこと?🔍

根来衆が自信を持って築いた千石堀城は、容易には近づけない鉄壁の防御力を誇っていました。しかし秀長は焦ることなく、精鋭部隊を展開して城を厳重に封じ込めます敵の強みを上回る圧倒的な包囲網を敷くことこそが、勝利を手にするための確実な布石だったのです。


戦慄の結末を確認するイメージ


── 戦慄の結末を確認しましょう。

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秀長が指揮した1日での落城劇

猛攻:天正13年3月21日に、豊臣秀長軍が城へ一斉に攻めかかり防衛線を突破した攻撃行動。
殲滅:城内の守備兵だけでなく、逃げ込んだ農民や女性を含む数千人が犠牲となった悲惨な結末。
多聞院日記:奈良興福寺の僧・英俊が記し、当日の落城と大量の死者が出た様子を伝えた貴重な史料。

戦いは長期化するかと思われましたが、結果は衝撃的でした。天正13年3月21日、攻撃開始からわずか数時間で城は炎に包まれます

筒井定次らの猛攻に加え、城内からの出火が致命傷となり、夕方には落城。最新鋭の防御施設を誇った堅城が、秀長の指揮のもと一瞬で灰燼に帰してしまったのです。あまりにあっけない幕切れでした。




当時の記録である多聞院日記には、城内の兵や民衆あわせて4000人以上が焼死や討ち死にしたと記されています。

この凄惨な見せしめとも言える徹底的な破壊により、残る根来や雑賀勢は完全に戦意を喪失しました。普段は温厚な秀長が見せた、敵を容赦なく殲滅する冷徹な一撃が、この戦いの行方を完全に決定づけたのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

事前の予想を裏切り、戦いは秀長軍による一方的な蹂躙であっけなく幕を閉じました。数千の命が1日にして失われるという地獄絵図は、周辺の敵対勢力に「抵抗すればこうなる」という強烈な恐怖を植え付けます。温厚な仮面の下に隠された、秀長の恐るべき実行力が凝縮されています。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「教養として、色々学んでおきたいけど時間ない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

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  • STEP 1.一気読みでサクッと把握5min

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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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結:実務家秀長が見せた冷徹さ

千石堀城の戦いは、豊臣政権にとって大きな転機でした。秀長によるこの迅速かつ徹底的な勝利がなければ、紀州の平定は長引き、その後の四国や九州攻めも遅れていたかもしれません。

調整役だけではない
戦国武将としての秀長の実力が、歴史を動かした瞬間でした。これこそが、彼が陰の立役者と呼ばれる所以なのです。
この記事のポイントは、以下の3つです。

天下統一を阻む紀州勢力の討伐
鉄砲集団が守る堅固な城の包囲
1日で数千人を葬った秀長の武断

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.千石堀城の跡地は、現在どうなっていますか?

大阪府貝塚市に位置し、一部がトコトコダンダンという名称の広場として整備され、案内板も設置されています。

Q2.なぜ難攻不落の城が1日で落ちたのですか?

圧倒的な兵力差による完全包囲に加え、激しい火攻めによって城内がパニックに陥り、防衛機能が麻痺したためです。

Q3.秀長はこの戦いで何を得ましたか?

紀州平定の決定打となり、後に紀伊や和泉、大和の支配権を確立し、100万石の大大名となる基盤を築きました。

各時代の FAQ は、FAQまとめページ で一気見できます。是非ご活用ください。
[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
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