【豊臣兄弟!特集】四国攻め|総大将は秀長!10万で元親圧倒?

秀長の生涯を辿る ▷
秀長の生涯を辿る ▷
【豊臣兄弟!特集】四国攻め|総大将は秀長!10万で元親を圧倒
温厚なイメージが強い秀長が、実は最強の司令官だったとご存知ですか?


10万の大軍を完璧に統率し、四国の覇者・元親を戦わずして屈服させたんです。彼の稀代の神業を”5分”で紐解きます。

▼ この記事でわかること

Q. 四国攻めの総大将・秀長が元親を圧倒した勝因は?


10万の大軍と盤石な兵站で元親を物理的に詰ませ、巧みな外交交渉によって無益な血を流さず降伏させました。

天正13年、関白となった豊臣秀吉は四国の覇者・長宗我部元親に対し、弟の羽柴秀長を総大将とする10万の大軍を派遣しました。秀長は毛利・宇喜多らと連携し、阿波・讃岐・伊予の3方面から侵攻を開始。

圧倒的な兵力
緻密な補給計画で元親の防衛網を次々と突破します。最後は外交僧を介した見事な和睦交渉により、無駄な血を流すことなく元親を降伏させました。この戦いは、秀長の司令官としての手腕が最も輝いた一戦といえます。

総大将は秀長!四国攻めの全貌

羽柴秀長:秀吉の異父弟で政権の実務を一手に担い、内々の儀は宗易とまで評された名補佐役。
長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか):土佐の出来人と称され、一代で四国全土を統一した戦国屈指の猛将。
四国征伐:天正13年に豊臣軍が10万以上の兵力で、四国の長宗我部氏を完全に降伏させた戦い。

兄・秀吉の影に隠れがちな羽柴秀長ですが、実は豊臣軍最強の司令官だったことをご存知でしょうか。天正13年、秀吉は四国を統一した長宗我部元親へ討伐軍を派遣します。

しかし秀吉は病と称して出馬せず、総大将の全権を弟の秀長に委ねました。これは単なる代役ではなく、秀長への絶大な信頼の証といえる人事でした。




この四国征伐で動員された兵力は10万以上。対する元親軍は4万程度。秀長は直前の紀州征伐で雑賀衆を平定した実績を買われ、この巨大な軍団の手綱を任されました。

もしあなたがリーダーなら、社長から「全社員の指揮をお前に任せる」と言われたようなもの。秀長は重圧にも動じず、四国全土を包囲する壮大な作戦図を描き始めます。

🔍 つまりどういうこと?🔍

秀吉は四国の覇者である元親を倒すため、10万を超える超大型プロジェクトの全権を信頼する弟の秀長に託しました。これは単なる代理ではなく実力を認めての抜擢です。秀長は圧倒的な兵力差を活かした完璧な包囲網を敷き、総司令官としての卓越した手腕を振るうことになったのです。


陣羽織を羽織り、地図を広げて軍議を行う羽柴秀長のイラスト


── では、具体的な進軍ルートを見てみましょう。

スポンサーリンク

3方向から迫る10万の大軍勢

毛利輝元:中国地方の覇者として秀吉と同盟を結び、四国攻めでは伊予方面軍の主力を担った大名。
宇喜多秀家:秀吉の猶子として可愛がられ、讃岐方面軍の大将として2万余の兵を率いた若き武者。
兵站(へいたん):部隊の後方で食糧や武器の補給や輸送などを担当し、軍事活動を支え続ける生命線。

秀長の作戦は、四国を3方向から同時に攻めるという容赦のないものでした。まず西からは毛利輝元配下の小早川隆景らが伊予へ上陸。北からは若き宇喜多秀家が讃岐へ侵攻。

そして秀長自身は副将の豊臣秀次と共に、最も守りの堅い阿波へ淡路島から攻め入ります。地図上で見れば、元親の領土が巨大な万力で締め上げられるような形です。




特筆すべきは秀長が整えた完璧な兵站です。10万の兵が消費する米や水は膨大ですが、彼は堺の商人と連携補給路を盤石にしました。

元親は地形を利用した持久戦を狙うも、物資が尽きない豊臣軍を見て絶望します。阿波の拠点が次々と孤立していく中で、数の暴力だけではない戦う環境の差こそが決定的勝因となりました。

🔍 つまりどういうこと?🔍

秀長は3方向からの同時侵攻で敵戦力を分散させつつ、完璧な補給体制で長期戦の不安を完全に解消しました。敵が持久戦を望んでも、それを許さないほどの圧倒的な物量と準備を突きつけたのです。これは戦う前から勝負が決まっている絶対に負けない状況を作り出す優れた戦略でした。


山城である一宮城を包囲する豊臣軍と、城内で苦悩する長宗我部軍の図


── では、決着の場面へと話を進めましょう。

スポンサーリンク

降伏へ導いた秀長の絶妙な手腕

一領具足:半農半兵の兵士で、普段は農作業に従事し有事には即座に武装して戦う長宗我部の主力。
谷忠澄:元親の重臣で外交手腕に優れた。圧倒的戦力差を悟って主君に降伏を説いた忠義の士。
土佐一国安堵:敗北した元親に対し領土没収を行う一方で、本領である土佐1国のみ支配を許した処置。

阿波の要衝・一宮城の水の手を断ち、開城させた秀長。しかし彼は、ここで無理に元親の首を狙うような野暮な真似はしませんでした。

捕虜とした元親の重臣・谷忠澄を土佐へ帰し、降伏を勧めさせます。元親は誇り高き一領具足たちと共に玉砕を覚悟していましたが、忠澄が語る豊臣軍の規律と兵数の現実に、ついに膝を折る決断をします。




提示された条件は阿波・讃岐・伊予の没収と引き換えの土佐一国安堵でした。敗軍の将へは異例の温情です。

これは無駄な流血を避け、速やかに四国を安定させたい秀長の高度な政治判断でした。元親を追い詰めすぎれば泥沼のゲリラ戦が続き、後の九州攻めにも影響したでしょう。勝って相手の顔も立てる、大人の戦い方です。

🔍 つまりどういうこと?🔍

秀長は力でねじ伏せるだけでなく、外交交渉で戦争を終わらせました。敗者である元親を許して味方につけることで、「反乱の芽を摘み豊臣政権の安定という最大の果実を手に入れたのです。武力行使はあくまで手段であり、真の目的は平和的な統治にあることを示した見事な結末でした。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「教養として、色々学んでおきたいけど時間ない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

📚続けて読みたいオススメ記事📚

秀長をもっと深掘り!

【豊臣兄弟!特集】越中征伐|佐々成政を救った秀長の仲介力!
【豊臣兄弟!特集】越中征伐|佐々成政を救った秀長の仲介力頑強な猛将・佐々成政がなぜ戦わずして秀吉に頭を下げたのでしょうか?武力制圧寸前で成政を救った、豊臣秀長の調整力。現代にも通じる組織のナンバー2の極意を"5分"で紐解きます。▼ この記……
  • STEP 1.一気読みでサクッと把握5min

  • STEP 2.この記事で理解を深める5min

  • STEP 3.拡大版noteで裏側まで10min

── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

スポンサーリンク

結:天下統一へ進む豊臣の基盤

四国攻めは単なる領土拡大戦争ではなく、豊臣政権が惣無事という平和を地方に強制できる力を示した最初の事例でした。

その実行部隊長として、軍事・外交の両面で完璧な仕事をしたのが羽柴秀長
です。彼の並外れた調整力があったからこそ、秀吉は後顧の憂いなく次の九州や小田原へと視線を向けることができたのです。
この記事のポイントは、以下の3つです。

兄の名代として全権掌握した統率力
兵站を重視し敵を詰ませる戦略
外交で早期決着を図る手腕

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.四国攻めはいつ行われ、どれくらいの期間かかりましたか?

天正13年の6月から8月にかけて行われました。約2ヶ月弱という短期間で、四国全土の平定が完了しています。

Q2.秀長以外に活躍した有名な武将は誰がいますか?

軍師として名高い黒田官兵衛や、蜂須賀正勝らが参戦しています。特に官兵衛は軍監として、秀長の戦略補佐を務めました。

Q3.なぜ元親は許されたのに、完全に滅ぼされなかったのですか?

元親の武勇を惜しんだことと、九州攻めに向けて強力な水軍を持つ長宗我部軍を味方に取り込むメリットの方が大きかったからです。

各時代の FAQ は、FAQまとめページ で一気見できます。是非ご活用ください。
[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
スポンサーリンク
偉人も、所詮は人間だ。

コメント欄 [スレッド上限:5階層]※暴言や過激な表現は伏字で

タイトルとURLをコピーしました