【豊臣兄弟!特集】但馬平定|竹田城攻略で秀長が司令官に!?

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【豊臣兄弟!特集】但馬平定|竹田城攻略で秀長が司令官へ覚醒
秀吉の弟という印象が強い秀長が、実は最強の司令官だった!?


兄の影で支えるだけではない、竹田城攻略で見せた彼の実力。そして覚醒の軌跡を”5分”で紐解きます。

▼ この記事でわかること

Q.但馬平定で、秀長はいかにして司令官へと覚醒したのか?


竹田城を巧みな用兵で落とし、生野銀山の管理で経済基盤を確立させ、自立した名将へと成長しました。

豊臣秀長といえば、兄である秀吉を陰で支えた「日本一の補佐役」という印象が強いかもしれません。しかし、天正年間の「但馬平定」においては、彼自身が総大将として軍を率い、見事な采配を振るいました。

天空の城として名高い竹田城の攻略や、銀山の経済支配を通じて、秀長が単なる調整役から「自立した司令官」へと覚醒していく過程を紐解きます。歴史の表舞台で輝く、もう一人の豊臣の姿をご覧ください。

雲海の城へ進軍!但馬攻略戦

羽柴秀長:秀吉の異父弟であり、温厚な性格と卓越した調整力をもつ。兄・秀吉の覇業を支えた。
但馬国:現在の兵庫県北部に位置し、生野銀山などの豊かな鉱脈を有している、山陰道の要衝。
竹田城:兵庫県の標高約350mの山頂に築かれ、早朝には、雲海に浮かぶ姿が見られる堅固な山城。

天正5年(1577)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨へ進軍する一方、羽柴秀長は別動隊を率いて北上し、山陰の但馬国へと侵攻しました。

これは秀長にとって、偉大な兄の背中を追うだけでなく、一軍の将として独り立ちし、織田家中で自らの武功を証明するための、極めて重要な試金石となる戦いでした。


但馬攻略で最初の標的となったのが、太田垣輝延が守る竹田城です。秀長はこの難攻不落の山城に対し、支城である岩洲城を先に落として敵の退路を断つなど、極めて巧みな用兵を見せつけました。

わずか数日で城を制圧した彼は、すぐに城代を置いて守りを固め、
司令官としての優れた資質を大いに示しました。

🔍 つまりどういうこと?🔍

兄の指示待ちではなく、秀長自身が現場の最高責任者として戦略を立案し、それを果断に実行に移した戦いでした。難所である竹田城の攻略成功は、彼が単なる秀吉の「弟」という補佐役の枠を超え、織田軍団における有能な一人の「将軍」として世間に認められる、確かな第一歩となったのです。


山頂にそびえる竹田城跡の石垣と、そこから見下ろす但馬の山並みの風景


── 一度は勝利した秀長ですが、敵も黙ってはいません。

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再征伐で決着!有子山城の戦い

山名祐豊(すけとよ):室町幕府の四職家である山名氏の当主で、織田と毛利の狭間で苦悩した守護。
有子山城:標高320mを超える山頂に築かれた堅固な要塞。山名氏城跡として国の史跡に指定されている。
宮部継潤(けいじゅん):元は比叡山の僧侶。秀吉の配下として秀長を補佐し、但馬平定に貢献した。

一度は織田家に降伏した但馬守護・山名祐豊でしたが、西の毛利氏の勢力が盛り返すと、再び織田へ反旗を翻しました。

これに対し、天正8年(1580)、秀長は二度目の但馬入りを果断に決行します。この再征伐は、情けをかけた前回とは異なり、極めて迅速かつ徹底的な軍事行動となったのです。



秀長は、山名氏の本拠である有子山城を厳重に包囲し、城への補給路を完全に遮断しました。

さらに宮部継潤ら歴戦の武将を要所に巧みに配置し、逃げ場を失った山名方はわずか10日あまりで落城しました。当主の祐豊は無念の死を遂げ、ここに名門山名氏による長きにわたる但馬支配は終焉を迎えたのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

情勢によって態度をコロコロと変える相手に対し、秀長は一切の容赦のない速攻で決着をつけました。この戦いは、彼が普段の温厚な性格だけでなく、時には冷徹に任務を遂行できる「武人」としての厳しさと強さを、十分に併せ持っていたことを如実に証明しています。


有子山城跡から見下ろす出石城下町の町割りと、静かな山里の風景


── 戦いに勝った後こそ、秀長の真骨頂が発揮されます。

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統治者としての覚醒と銀山掌握

生野銀山:戦国時代における屈指の銀産出地であり、織田信長が直轄地として重視した資金源。
木下祐久:秀吉の古くからの家臣であり、秀長と共に但馬の行政や銀山経営を担った実務官僚。
国衆(くにしゅう):地域に根ざした小規模な領主たちで、秀長が懐柔し組織化した地元の武士。

但馬平定後、秀長は出石城や竹田城を新たな拠点として統治を開始しました。その中で特に重要だったのが生野銀山の管理です。

彼は専門の銀山奉行を配置し、採掘から流通までのルートを徹底的に整備することで、織田・豊臣政権の活動を支えることになる、莫大な軍資金を生む経済基盤を確立しました。



また、戦乱で荒廃した土地の復興にも尽力しました。木下祐久ら実務に明るい家臣と緊密に協力し、旧山名家臣や地元の国衆を排除するのではなく、積極的に味方に取り込んで組織化しました。

この敵を作らない寛容な統治スタイルこそが、但馬国に急速な安定と繁栄をもたらす鍵となったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

秀長は単に「勝つ」だけでなく、領国を「治める」ことにおいても天才的でした。銀山という経済的なドル箱を確保しつつ、地元勢力の心を巧みに掴む政治手腕は、後の「大和大納言」としての名声に直結する、彼の優れた統治者としての原点だったと言えるでしょう。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「教養として、色々学んでおきたいけど時間ない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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まとめ:名補佐役から司令官へ

但馬平定は、秀長が単なる「秀吉の弟」という立場から脱却し、一人の武将として完全に自立した重要な転換点でした。竹田城攻略で見せた巧みな軍略、有子山城での冷徹な決断力、そして銀山経営で見せた卓越した政治手腕。これら全ての経験が、後に豊臣政権の屋台骨を支えることになる彼の実力を、大きく開花させたのです。
この記事のポイントは、以下の3つです。

別動隊を率いて竹田城を攻略
再征伐で山名氏を滅ぼし平定
銀山管理と地元掌握で安定統治

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.秀長が但馬を攻めたのはいつ頃ですか?

第一次攻略は天正5年(1577)、完全平定は天正8年(1580)です。この間に三木合戦などの支援も行っています。

Q2.竹田城は現在どうなっていますか?

現在は石垣のみが残る城跡として整備されています。天空の城として有名で、多くの観光客が訪れる名所です。

Q3.秀長のリーダーシップから何を学べますか?

調整役としての柔軟さと、決める時は決める決断力のバランスです。両方を使い分けることが信頼を生む鍵となります。

各時代の FAQ は、FAQまとめページ で一気見できます。是非ご活用ください。
[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
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