【豊臣兄弟!特集】手取川の戦い|秀吉を秀長はどう庇った?

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【豊臣兄弟!特集】手取川の戦い|秀吉の逃亡を秀長はどう庇った
秀吉最大の危機である、敵前逃亡はなぜ許されたのでしょうか?


信長の激怒を鎮め、絶体絶命の窮地を救った弟・秀長の知られざる機転。兄弟の絆が生んだ逆転劇を”5分”で紐解きます。

▼ この記事でわかること

Q. 手取川の戦いで秀吉が戦場から逃亡した理由とは?


柴田勝家との対立による無断撤退も、秀長の仲介信貴山城攻略の功績で汚名を返上し、処分を回避しました。

天正5年、織田軍と上杉軍が激突した手取川の戦い。この重要な局面で、秀吉は総大将・柴田勝家と作戦を巡り対立し、なんと無断で戦線を離脱してしまいます。


この前代未聞の職場放棄に激怒する信長に対し、弟・秀長はどのように奔走して兄を庇い、絶体絶命の危機を救ったのでしょうか。秀長の卓越した危機管理能力と、後に天下統一を成し遂げることになる兄弟の強固な絆の原点に迫ります。

独断撤退で招いた信長の激怒

手取川の戦い:天正5年に加賀国で発生した、上杉謙信軍と織田信長軍による最初で最後の直接対決。
柴田勝家:織田家の筆頭家老として北陸方面軍を率い、秀吉とは作戦方針を巡って激しく対立した猛将。
職務放棄:自身に課せられた業務や役割を、正当な理由や許可なく勝手に中断して立ち去る行為。

秀吉のキャリアにおける最大の危機、それは天正5年(1577年)の手取川の戦い直前に訪れました。上杉謙信の南下に備え、北陸へ派遣された秀吉ですが、総大将である柴田勝家と作戦会議で真っ向から衝突してしまいます。


あろうことか秀吉は、信長の許可を得ずに軍を引いて長浜城へ帰還するという、前代未聞の職務放棄を犯しました。


現代の会社組織に例えるなら、全社を挙げた重要プロジェクトの直前に上司と喧嘩し、無断欠勤して自宅に引きこもるような暴挙です。


当然、社長である信長の怒りは頂点に達しました。残された書状には秀吉を成敗するといった趣旨の激しい言葉が並んでおり、秀吉は切腹すら免れない、まさに絶体絶命の窮地に立たされてしまったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

上司との意見不一致を理由に、独断で現場を放棄することは、組織の指揮系統を根底から覆す最も重い規律違反です。秀吉がとったこの行動は、単なる感情的な喧嘩では決して済まされない、自身の命とキャリアそのものを危険に晒す重大な契約違反であり、社会的信用を失う行為でした。


激怒する信長に頭を下げる秀長のイメージイラスト


── 死を覚悟した秀吉を、弟はどう救ったのでしょうか。

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兄の窮地を救う秀長の奔走

松永久秀:信長に対し二度の謀反を起こし、最後は信貴山城にて名茶器と共に爆死したとされる畿内の梟雄。
汚名返上:失敗や不祥事によって地に落ちた名誉を、新たな素晴らしい成果を上げることで回復する行為。
仲介工作:対立する二者の間に入り、関係修復や合意形成に向けて、裏で事前の根回しや調整を行う活動。

信長の激しい怒りを解くために動いたのが、弟の秀長でした。彼は直ちに安土城へ向かい、関係者への必死の仲介工作に奔走したと考えられています。


ちょうどその時、大和国で松永久秀が信長に対し反旗を翻すという大事件が勃発しました。秀長はこの絶好のタイミングを逃さず、兄に戦功による汚名返上の機会を見事に作り出したのです。


謹慎中だった秀吉軍は、直ちに信貴山城の攻囲戦に参加を志願しました。秀長が実質的な指揮を執り、圧倒的な武力で城を攻め落とすことに成功します。


単に言葉で謝罪するのではなく、「今の織田家には秀吉軍の力が必要だ」実績で証明してみせたのです。この迅速な切り替えこそが、感情的な対立を乗り越え、信頼を回復する鍵となりました。


🔍 つまりどういうこと?🔍

重大なミスをした時、言葉だけの謝罪には限界があります。秀長は組織が今最も困っている課題を解決することで、兄の利用価値を周囲に再認識させ、処罰を回避するという高度な解決策を実行しました。実務的な貢献こそが、感情的なしこりを解消する最短のルートになるのです。


信貴山城を攻める羽柴軍のイメージイラスト


── この事件が、二人の役割を決定づけました。

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兄弟の絆が生んだ政権の礎

中国攻め:播磨国を拠点として毛利輝元の勢力圏へ侵攻し、西日本を織田家の支配下に置くための大規模遠征。
補佐役:指揮官にとって最も信頼のおける右腕であり、組織運営において欠かすことのできない存在。
役割分担:組織の目標を達成するために、個々の適性に応じて、それぞれの担当業務を明確に分けること。

信貴山城での功績により赦免された秀吉は、そのまま中国攻めの総大将に任じられます。


この一連の事件を通じ、「直感で動き、時に暴走する兄」「冷静に調整し、尻拭いをする弟」という、後の豊臣政権を支える完璧な役割分担が確立されました。秀長という最強の補佐役がいたからこそ、秀吉は安心して前線で指揮を執ることができたのです。


もし秀長がこの時、兄を庇いきれていなければ、後の天下人・豊臣秀吉は歴史に存在しなかったでしょう。


手取川での逃亡劇は、結果として豊臣兄弟の結束を盤石なものにし、後の政権運営のスタイルの原点となりました。手痛い失敗を共有し、共に乗り越えた経験こそが、二人の絆を何よりも強く、そして揺るぎないものにしたのです。


🔍 つまりどういうこと?🔍

リーダーの欠点を補完できるNo.2の存在が、組織の存続には不可欠です。危機を共に乗り越えた実績が、言葉以上の強固な信頼関係を生み、その後の大きなプロジェクトを成功させる土台となります。失敗体験の共有こそが、チームの結束力を高めるための重要なプロセスなのです。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「教養として、色々学んでおきたいけど時間ない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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結:弟が支えた天下への道

手取川の戦いにおける敵前逃亡は、秀吉のキャリアにとって命取りになりかねない大失態でした。しかし、秀長の冷静な根回しと、即座の戦功による挽回策が、最悪の事態を未然に防ぎました。失敗を単なる汚点として終わらせず、組織への貢献で上書きする。この徹底した危機管理こそが、豊臣政権の強さの秘密だったのです。
この記事のポイントは、以下の3つです。

独断専行は組織での信用を失墜させる
謝罪よりも新たな成果で誠意を示す
欠点を補い合える右腕を持つ

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.手取川の戦いはいつ、どこで起こりましたか?

天正5年(1577年)、現在の石川県を流れる手取川付近で発生しました。織田信長軍と上杉謙信軍が激突した戦いです。

Q2.なぜ秀吉は勝手に帰ってしまったのですか?

総大将である柴田勝家と、作戦方針を巡って激しく対立したためです。感情的な確執が、軍律違反の引き金となりました。

Q3.秀長の行動から何を学べますか?

ミスをした後のリカバリーの重要性です。単に謝るだけでなく、組織にとって利益のある行動で信頼を取り戻す姿勢が学べます。

各時代の FAQ は、FAQまとめページ で一気見できます。是非ご活用ください。
[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋この記事を書いた人🖋

Alex Kei(学び直し歴史ライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。
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