鎌倉幕府はなぜ崩壊した?両統迭立と後醍醐天皇|5分de探究#043

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鎌倉幕府はなぜ崩壊した?両統迭立と後醍醐天皇|5分de探究#043
たった一人の親の偏愛が、国の運命を狂わせたことをご存知でしょうか?


朝廷を真っ二つに割った泥沼の継承争いと、その隙を突いた後醍醐天皇の野望を”5分”で紐解きます。

▼ この記事でわかること

Q.鎌倉幕府は、なぜ両統迭立の混乱で滅亡したのですか?


皇位継承の調停役である幕府への不満から、後醍醐天皇悪党や武士を味方につけ倒幕したからです。

鎌倉幕府の崩壊は、元寇による財政難で根幹である「御恩と奉公」のシステムが機能不全に陥ったことから始まりました。地方では無法者である「悪党」が台頭し、幕府の統制力は著しく低下。さらに京都では、後嵯峨上皇の偏愛に端を発する皇位継承争いが勃発し、朝廷が真っ二つに分裂します。

幕府はこの果てしない調停に追われ、政治的安定を失っていきました。構造的な弱体化と個人の意志が複雑に絡み合い、歴史は倒幕へと突き進んだのです。

📚お読みになる前に📚

恩賞不足が招く「御恩と奉公の限界」

御家人:将軍と主従関係を結び、戦時には軍事力として命をかけ、平時には幕府を支えた武士団
元寇:鎌倉時代中期に起きた、モンゴル帝国による二度にわたる日本への大規模な軍事侵攻
霜月騒動:有力御家人である安達泰盛とその一族が滅ぼされた、幕府内部で起きた激しい権力抗争

かつて源平合戦を制した鎌倉幕府ですが、その基盤は意外にも脆いものでした。最大の要因は、命がけで戦った御家人たちに対し、土地という十分な報酬を与えられなくなったことです。特に、国難ともいえる元寇での勝利は、防衛戦だったがゆえに新たな領地を一切獲得できず、幕府は深刻かつ致命的な「恩賞不足」に陥りました。


さらに幕府内部でも、北条氏による他氏排斥が強引に進みます。1285年の霜月騒動では、長年の有力な支持者だった安達氏さえも粛清されました。こうして「どれだけ頑張っても報われない」うえに「身内同士で血で血を洗う」状況が続き、武士たちの心は、かつて強く信頼していた幕府から急速に離れ、冷めきっていってしまったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

土地を媒介とした「御恩と奉公」という強固な契約関係が、分け与える土地の完全な枯渇によって破綻しました。さらに内部で不毛な抗争を繰り返したことで、幕府は自らの最大の支持基盤である武士団からの信頼を完全に失い、誰からも助けられない孤立無援の状態へと陥っていったのです。


荒れた荘園で税を奪い去る武装した集団(悪党)のイラスト


── では、中央の力が弱まる中、地方で何が起きていたのかを見てみましょう。

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地方で暴れる「悪党と支配の動揺」

悪党:荘園領主や幕府の命令に一切従わず、年貢を強奪するなどして既存の支配体制に抵抗した武士
地頭:平時には荘園の管理や警察権の行使を行い、年貢の徴収を行って幕府に納めるために置かれた役職
荘園:貴族や大きな寺社が所有した私有地であり、当時の支配層にとっての主要な経済基盤となっていた土地

中央の統制が緩むと、地方では悪党と呼ばれる武装集団が暴れ始めます。彼らは既存の権威を恐れず、各地の荘園に押し入っては年貢を強奪しました。幕府がどれだけ「取り締まれ」と命令を出しても、彼らは法的な判決を完全に無視し、実力行使で自分たちの利益を確保しようとする動きを一切止めようとはしませんでした。


さらに厄介だったのは、本来荘園を守るべき立場の地頭までもが、権限を悪用して領主の土地を侵略し始めたことです。警察官が泥棒に変わるような事態が横行し、「悪党地頭」による横暴は日常茶飯事となりました。これは幕府の統治能力が完全に失墜していることを、広く世の中に知らしめる結果となってしまったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

幕府からの命令が地方に全く届かなくなり、実力こそが正義という無法状態が広がりました。本来は体制側であるはずの地頭さえもが略奪に加担し始めたことで、鎌倉幕府という組織が持つ正当性と威信は完全に地に落ち、統治システムは事実上の崩壊を迎えてしまったのです。

💡 情報が混み合っていませんか?細かい時系列は、年号整理ページ にまとめてあります。是非ご活用ください。


二人の天皇が背を向け合い、その背後に貴族たちが対立して並ぶイラスト


── 次に、混乱の火種となった京都の皇位継承問題に目を向けましょう。

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朝廷を二分する「皇位継承の迷走」

後嵯峨上皇:幕府の支援で治天の君となり院政を敷いたが、自身の偏愛により皇位継承の火種を後世に残した人物
両統迭立:分裂した二つの皇統が、交代で天皇の位につくという、混乱収拾のために幕府が提示した調停案
後醍醐天皇:両統迭立という不安定なバランスの中で即位し、自らの皇統の正統性を求めて討幕の中心となった人物

鎌倉の混乱をよそに、京都でも大問題が発生していました。発端は、後嵯峨上皇が長男ではなく次男の亀山天皇を極端に偏愛したことです。これにより皇室は「持明院統」「大覚寺統」という二つの派閥に分裂し、どちらが正当な皇位継承者かを巡って、貴族たちを巻き込んだ泥沼の争いを延々と続けることになりました。


見かねた幕府は、両派が交互に天皇を出す両統迭立という苦肉の策を提示します。しかし、これは問題を根本解決せず先送りにしたに過ぎませんでした。この不安定なバランスの中で即位したのが、大覚寺統の後醍醐天皇です。彼は自身の皇統を正当化するため、弱体化した幕府を倒すという大きな決断を下すことになります。

🔍 つまりどういうこと?🔍

一人の上皇による個人的な「好き嫌い」が皇室を二つに割り、幕府をも巻き込む巨大な政治闘争へ発展しました。この解決の見えない混乱こそが、幕府の統治に不満を持つ勢力が一つに結集する絶好のきっかけとなり、歴史を大きく動かす倒幕運動への決定的な着火剤となったのです。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「歴史は好きだけど、文字を読む時間はあまりない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

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鉄壁の鎌倉幕府はなぜ崩壊したのか? その裏には、遺産相続や借金という切実なお金の悩みがありました。教科書の記述だけでは見えてこない、人間味あふれる歴史の真実を紐解きます。
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まとめ:歴史を動かす「構造と個人の力」

鎌倉幕府の滅亡は、単一の原因によるものではありません。経済システムの破綻、地方統治の失敗、そして京都での人間関係のもつれが同時多発的に起きた結果でした。歴史とは、大きな「時代の流れ」と、そこに生きる「個人の感情」が交差したときに大きく動くものなのです。
この記事のポイントは、以下の3つです。

恩賞の枯渇による御恩と奉公の崩壊
地方での悪党の台頭と統治機能不全
後嵯峨上皇に始まる皇位継承争い

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.なぜ鎌倉幕府の御家人は離反したのですか?

元寇という防衛戦で新たな領地が得られず、十分な恩賞がなかったからです。生活が困窮した武士たちは幕府への信頼を失いました。

Q2.両統迭立とはどのような仕組みですか?

分裂した皇室(持明院統と大覚寺統)から、交互に天皇を即位させる方式です。幕府が主導しましたが、かえって混乱を長引かせました。

Q3.歴史はシステムと個人のどちらで動くのですか?

両方が影響し合います。社会システムの限界という土台の上に、キーパーソンの決断や行動が重なることで、大きな変革が起こります。

各時代の FAQ は、FAQまとめページ で一気見できます。是非ご活用ください。
[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋 この記事を書いた人 🖋

Alex Kei(学び直しライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。

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