羽柴秀吉の中国大返し!明智光秀を討った戦略|5分de探究#064

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羽柴秀吉の中国大返し!明智光秀を討った戦略|5分de探究#064
なぜ秀吉だけが、絶望的な状況から天下を掴めたのでしょうか?


その鍵は常識を覆すスピードと、冷徹な決断力にありました。奇跡とも呼ばれる大返しの裏側にある、緻密な戦略を”5分”で紐解きます。

▼ この記事でわかること

Q.羽柴秀吉の中国大返しは、いかにして成功したのか?


敵将の切腹で即時講和し、情報を遮断して京へ急行。想定外の機動力で明智光秀を討ち天下人となりました。

本能寺の変で信長が倒れた直後、羽柴秀吉はいかにして天下への道を切り開いたのか。毛利攻めの最中に訃報に接した秀吉が、敵将・清水宗治との講和を即座にまとめ、驚異的な速度で京へ引き返します。

そして、その後の清洲会議で信長の孫・三法師を擁立し、ライバルの柴田勝家らを出し抜いた政治的手腕や、謎多き秀吉の出自、信長との真の人間関係についてまでを紐解きます。

📚お読みになる前に📚

謎多き出自と実力主義の「草履取り」

清洲会議:信長死後の後継者と領地配分を決めるため、織田家の重臣が集まった重大な評定。
三法師:秀吉が擁立した信長の嫡孫で、後の織田秀信となる当時数え年三歳の幼き後継者候補。
浅井長政:信長の義弟でありながら敵対し、小谷城の戦いで秀吉に滅ぼされた近江の戦国大名。

織田信長の後継者として天下人に登り詰めた羽柴秀吉ですが、1570年以前の経歴は多くの謎に包まれています。一般的には貧しい農民の子や、信長の草履取りから出世したとされますが、これらは後世の創作である可能性が高いのです。確かなのは、彼が実力で織田家の重臣となり、浅井長政を滅ぼした功績などで頭角を現した事実です。


本能寺の変の後、織田家の行く末を決める清洲会議において、秀吉はその政治力を遺憾なく発揮しました。信長の次男・信雄や三男・信孝が後継を争う中、秀吉はわずか二歳の三法師(信長の孫)を抱きかかえて擁立し、場の主導権を掌握。誰もが反対できない血筋を盾にして、巧みに織田家の実権を握っていったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

秀吉の農民出身説は不確かですが、実力主義の織田家団で異例の出世を遂げたのは事実です。信長の死後、彼は幼い三法師を神輿として担ぐことで、正当性を主張他のライバルたちを完全に封じ込め、織田家乗っ取りの強固な足がかりを作り上げ、政治の主導権を握ったのです。


激しい雨により水没した備中高松城とそれを包囲する秀吉軍の陣営


── では、運命の「本能寺の変」直後の動きを見ていきましょう。

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絶体絶命の危機を好機に変えた「水攻め」

備中高松城:秀吉が水攻めで包囲していた毛利氏の重要拠点であり、湿地帯に位置する堅牢な平城。
清水宗治:城兵の助命を条件に切腹し、秀吉との講和を見事に成立させた高松城の義理堅い守将。
明智光秀:本能寺の変で主君信長を討ち、山崎の戦いで秀吉に敗れた教養人としても名高い武将。

1582年6月、秀吉は毛利氏の要衝備中高松城を攻略中でした。近隣の川を堰き止める大規模な水攻めにより、城は孤立無援の状態にありました。まさにその時、明智光秀が毛利氏へ送った密使を秀吉軍が捕縛します。そこで初めて、主君・信長が京の本能寺で光秀に討たれたという驚愕の事実を知ることになるのです。


光秀は、遠征中の秀吉がすぐに動けないと踏んでいました。しかし秀吉の判断は迅速でした。彼は信長の死を伏せたまま、城将の清水宗治に対し「貴殿の切腹と引き換えに城兵の命は助ける」という条件で即座に講和を提示。宗治はこの条件を飲み、湖のようになった城外へ小舟で漕ぎ出し、舞を舞って見事な最期を遂げました。

🔍 つまりどういうこと?🔍

信長の死を知った秀吉は、動揺するどころか即座に敵との和睦を選びました。情報を徹底して遮断し、非常に有利な条件で戦争を早期に終わらせることで、彼は背後の憂いを完全に断ち、全軍を京へ向ける準備を整えたのです。この冷徹な判断力が日本の歴史を大きく動かしました。

💡 情報が混み合っていませんか?細かい時系列は、年号整理ページ にまとめてあります。是非ご活用ください。


松明を掲げ夜道を疾走する秀吉軍の兵士たちとそれを鼓舞する馬上の秀吉


── では、神業とも呼ばれた大返しと決戦の結末へ進みましょう。

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天下人を決定づけた神速の「中国大返し」

中国大返し:備中高松から京までの約二百キロを短期間で踏破した、秀吉軍による伝説的な強行軍。
山崎の戦い:弔い合戦として秀吉が明智光秀を破り、信長の後継者へ名乗りを上げた天下分け目の決戦。
ルイス・フロイス:信長や秀吉の時代を詳細に記録し、貴重な史料『日本史』を著したイエズス会宣教師。

高松城を出発した秀吉軍は、信じられない速度で京を目指しました。これが世に言う中国大返しです。通常なら数週間かかる道のりをわずか数日で踏破し、予想外の方向から現れた大軍に、光秀は驚愕しました。両軍は山崎の戦いで激突しましたが、勢いに勝る秀吉軍が光秀を圧倒。光秀は敗走中に農民の手にかかり命を落としました。


秀吉は主君の仇討ちを大義名分にしましたが、実際の信長との関係は複雑でした。ルイス・フロイスの記録によれば、信長は部下を召使いのように扱い、秀吉の妻・ねねへ送った手紙でも彼をハゲネズミと呼んでいます。それでも秀吉は、信長の死を最大のチャンスとして利用し、感情よりも実利を優先して天下を掴み取ったのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

光秀の最大の誤算は、秀吉の恐るべき機動力でした。物理的な行軍速度だけでなく、変化する状況に適応する意思決定の圧倒的な速さが勝敗を分けたのです。秀吉にとって信長の死は単なる悲劇ではなく、自らがトップに立つためのまたとない踏み台だったと言えるでしょう。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「歴史は好きだけど、文字を読む時間はあまりない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

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── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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まとめ:スピードと政治力が拓いた天下への道

今回は、本能寺の変の直後に羽柴秀吉が見せた神がかり的な対応力について解説しました。情報の独占、即断即決の講和、そして電撃的な行軍。これら全てが噛み合ったことで、彼は織田家中のライバルを出し抜き、天下人への切符を手にしました。
この記事のポイントは、以下の3つです。

実力で重臣へ這い上がった秀吉
高松城講和で見せた冷徹な判断
中国大返しと会議で掴んだ主導権

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.秀吉は本当に農民の出身だったのですか?

定かではありません。父が兵士の副業を持っていた説や、今川氏の家臣に仕えていた時期もあり、完全な農民とは断定できません。

Q2.なぜ清水宗治は切腹しなければならなかったのですか?

城兵全員の命を救うためです。秀吉は宗治の命を講和の条件とし、宗治もまた主家である毛利氏と部下を守るために、自らの命を差し出すことを選びました。

Q3.明智光秀は最後、どうなったのですか?

山崎の戦いで敗れ、坂本城へ逃れる途中で命を落としました。一般的には、落ち武者狩りを行っていた地元の農民たちによって竹槍で襲撃され、最期を遂げたとされます。

各時代の FAQ は、FAQまとめページ で一気見できます。是非ご活用ください。
[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋 この記事を書いた人 🖋

Alex Kei(学び直しライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。

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