楠木正成と千早城の戦い!幕府を追い詰めた奇策|5分de探究#045

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楠木正成と千早城の戦い!幕府を追い詰めた奇策|5分de探究#045
末期の鎌倉幕府は、なぜあっけなく崩壊したのでしょうか?


正成の奇策と尊氏の計算高い裏切りが歴史の決定打となりました。巨大組織が、脆くも倒れ去るメカニズムを”5分”で紐解きます。

▼ この記事でわかること

Q.楠木正成と千早城の戦いは、なぜ幕府を崩壊させたのか?


ゲリラ戦で幕府の権威を失墜させ、好機と見た足利尊氏新田義貞が相次いで挙兵し裏切ったからです。

1331年、後醍醐天皇の挙兵に応じた楠木正成は、千早城での巧みなゲリラ戦で幕府の大軍を翻弄し、その権威を失墜させました。この好機に、足利尊氏は「実利」を優先して幕府を裏切り、京都の六波羅探題を制圧します。

呼応した新田義貞も鎌倉を攻め落とし、北条氏の執権政治はついに終焉を迎えました。後醍醐天皇は「建武」と改元し親政を開始しますが、武士の力を基盤とする新政権は、すでに次の動乱の火種を抱えていたのです。

📚お読みになる前に📚

幕府を翻弄した楠木正成の「ゲリラ戦」

楠木正成:後醍醐天皇の呼びかけに応じ、少数の兵で幕府の大軍を翻弄した河内の悪党出身の武将。
千早城:正成が籠城し、わら人形やおとり等の奇策を用いて幕府軍を釘付けにした山岳の要塞。
護良親王:後醍醐天皇の皇子であり、正成の才能を見抜いて軍の指揮を任せた反幕府勢力の指導者。

楠木正成は、伝説的な逸話が多く実像がつかみにくい人物ですが、河内の小規模な領主だったことは確かです。1331年、後醍醐天皇が幕府打倒を掲げた際、彼はわずかな手勢でこれに応じました。一度は敗北したものの、決して諦めずに山岳地帯へ潜伏し、幕府軍に対する徹底的な抵抗運動を粘り強く継続したのです。


正成の真骨頂は、千早城での籠城戦にあります。彼はわら人形でおとりを作ったり、巨石を落としたり、熱湯をかけたりと「悪党」的な戦術を駆使しました。これにより、護良親王と共に幕府の大軍を谷間に釘付けにし、完全に疲弊させました。この戦いが、各地の武士たちに「幕府は倒せる」という勇気を与えたのです。

🔍 つまりどういうこと?🔍

正統な武士の戦い方にとらわれない正成の予測不能なゲリラ戦法が、圧倒的な兵力差を埋めました。彼の活躍が貴重な時間稼ぎとなり、鉄壁と思われた幕府の軍事的権威を完全に失墜させ、全国的な反乱の呼び水となる重要な転換点を作ったのです。これこそが、小が大を制す歴史の面白さと言えるでしょう。


燃え上がる京都の六波羅探題と、軍を指揮する足利尊氏の様子


── では、この混乱の中で決定的な役割を果たした人物について見ていきましょう。

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決定打となった足利尊氏の「裏切り」

足利尊氏:源氏の名門出身でありながら、幕府軍を裏切り京都を制圧した、この時代の重要人物。
北条氏:鎌倉幕府の実権を握っていた一族。尊氏らに背かれ、滅亡の道をたどることになった。
実利主義:形式や義理よりも、現実的な利益や情勢判断を優先して行動する考え方や態度のこと。

足利尊氏は、源頼朝の遠い親戚にあたる名門・源氏の棟梁であり、本来は北条氏と婚姻関係にある親密な同盟者でした。1333年、彼は幕府から反乱鎮圧のために西国へ派遣されます。しかし京都へ向かう途中、彼は突如として幕府に反旗を翻す決断を下します。母の実家である上杉氏らの勢力を加え、一気に京都を攻め落としました。


なぜ彼は裏切ったのでしょうか。北条氏に軽んじられたという説もありますが、彼の性格を「実利主義」と捉えると理解しやすくなります。衰退する幕府と共に沈むより、新しい勝者側につく方が合理的だと判断したのでしょう。彼のこのドライな政治的本能こそが、膠着していた戦局を一気に決定づけるトリガーとなりました。

🔍 つまりどういうこと?🔍

最大戦力であった尊氏の寝返りは、幕府にとって致命的な打撃でした。彼の行動原理は「義理」よりも「勝機」にあり、その冷静な判断が時代の勝敗を分けました。情に流されず、時流を読んで勝ち馬に乗るという冷徹な実利主義こそが、乱世を生き抜くための、残酷ですが唯一の正解だったのかもしれません。

💡 情報が混み合っていませんか?細かい時系列は、年号整理ページ にまとめてあります。是非ご活用ください。


稲村ヶ崎を越えて鎌倉へ突入する新田義貞の軍勢


── では、いよいよ鎌倉幕府の最後について見ていきましょう。

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鎌倉を攻め落とした新田義貞の「進撃」

新田義貞:上野国(群馬県)で挙兵し、わずかな期間で鎌倉本体を攻め落とした源氏の有力武将。
建武の新政:幕府滅亡後、後醍醐天皇が「武」の精神を掲げて開始した、天皇中心の新しい政治。
後醍醐天皇:鎌倉幕府打倒を主導した天皇。隠岐から帰還し、自ら政治を行う親政をスタートさせた。

尊氏が京都を制圧したのとほぼ同時期、関東でも大きな動きがありました。新田義貞が上野国で挙兵し、破竹の勢いで鎌倉へと進軍したのです。義貞は、幕府への不満を持つ地元の武士たちを吸収しながら勢力を拡大し、ついに鎌倉の防衛線を突破北条一族は滅亡し、150年近く続いた武家政権はあっけなく幕を閉じました。


勝利した後醍醐天皇は、「建武」と改元し、天皇親政を開始します。この「建武」には「武(騎士道精神)を建てる」という意味が込められており、武士の力を基盤にした政権運営が意図されていました。功績のあった尊氏には、天皇の名前の一字「」が与えられるなど厚遇を受けますが、これが新たな火種となっていきます。

🔍 つまりどういうこと?🔍

義貞の軍事行動が幕府にとどめを刺し、後醍醐天皇による新時代の扉を開きました。しかし、その新体制は強力な武士たちのバランスの上に成り立つ、危うい均衡状態だったのです。共通の敵を倒した後に訪れるのは、勝者たちによる新たな権力争いであるという、歴史が繰り返す皮肉がここにあります。


── 👀 読むのが疲れてきませんか? 「歴史は好きだけど、文字を読む時間はあまりない…」 そんな方には、耳で聴く読書がオススメ。

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建武の新政はなぜ失敗?後醍醐天皇と尊氏の決裂|5分de探究#046
成果に見合う報酬がない組織に不満を感じませんか。 対価を払わないリーダーには、人はついてきません。給与未払いで崩壊した政権と、実利で心を掴んだ武将の対比から、組織で生き抜く要諦が掴めます。
  • STEP 1.一気読みでサクッと把握5min

  • STEP 2.この記事で理解を深める5min

  • STEP 3.拡大版noteで裏側まで10min

── 最後に、この記事のまとめFAQでおさらいしましょう。

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まとめ:建武の新政と崩壊への「序章」

鎌倉幕府の滅亡は、単一の要因ではなく、正成の攪乱尊氏の政治的判断義貞の軍事行動が連鎖して起こりました。後醍醐天皇は彼らの力を借りて「建武の新政」をスタートさせましたが、それは同時に、強大すぎる武士たちをどう制御するかという、困難な課題の始まりでもあったのです。
この記事のポイントは、以下の3つです。

正成のゲリラ戦術による幕府権威の失墜
尊氏の実利に基づく北条氏への裏切り
義貞の鎌倉進撃による武家政権の終焉

ここで得た小さな気づきが、明日のあなたの視野をほんの少しだけ広げてくれますように。

❓この記事のテーマに関するFAQ❓

Q1.なぜ足利尊氏は幕府を裏切ったのですか?

北条氏への不満に加え、幕府の寿命を見限り、勝てる側に付くという「実利主義」的な判断が大きかったと考えられます。

Q2.建武の新政とはどのような政治ですか?

天皇に権力を戻しつつ、武士の力も利用する政治体制です。尊氏ら有力武士が多くの土地や役職を与えられました。

Q3.楠木正成、足利尊氏、新田義貞で誰が一番強いですか?

一概には言えませんが、正成は局地戦の天才、尊氏は政治的勝負勘、義貞は爆発的な突破力と、それぞれ異なる強みがありました。

各時代の FAQ は、FAQまとめページ で一気見できます。是非ご活用ください。
[主な参考資料]
・佐藤信ほか編『詳説日本史(日本史探究)』山川出版社,2023
・国史教科書編纂委員会編『市販版 国史教科書』PHP研究所,2024
・笹山晴生ほか編『詳説 日本史史料集』山川出版社
出典:Wikimedia Commons
※当記事は上記の信頼できる書籍・史料に基づき作成していますが、わかりやすさを優先した独自の表現を含みます

🖋 この記事を書いた人 🖋

Alex Kei(学び直しライター)

早稲田大学創造理工学部卒。複数の教科書と専門書を読み比べながら、【大人の学び直し】に特化した記事を執筆しています。

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